ホーム > あゆみ > 【きょうどう】カテゴリの記事一覧

あゆみ

2017年4月23日 礼拝説教要旨

2017年4月23日

聞いて信じる

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章5-11節

 

主題聖句:その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 マルコによる福音書1614

 

 

 主イエスはむごい十字架にかけられて確かに死なれ、そのお体は十字架から降ろされて墓に納められました。その事実に、彼ら弟子たちは全く気力を失っていました。週の初めの日の朝早く、墓にいた女性の弟子たちが、墓の中で、天使と思われる若者から「あの方は復活なさって、ここにはおられません。」と言われて、震え上がって恐れるばかりでした。天使の言葉を聞いても信じられなかったのです。

 

その日、復活された主イエスは、マグダラのマリアにご自身を現されました。その復活された主イエスの姿を見たマリアは主イエスが復活されたと認め、その喜びを仲間に伝えました。しかし、仲間たちは彼女の伝えることを聞いても信じることができませんでした。

 

その後、11人の弟子たちが食事をしている時、復活された主イエスがその場に現れ、彼らの不信仰とかたくなな心をとがめられたのです。主イエスは彼らに、復活を目撃した人々の証言を聞いて信じることを願っておられたからです。しかし、復活された主イエスは、その彼らに、福音の宣教を託されたのです。それは、復活の主イエスから聞いて信じて教えられた者が、皆に伝えてほしいからです。聞いて信じることが大切なのです。

2017年4月16日 礼拝説教要旨

2017年4月16日

あの方は復活なさった

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章1-8節

 

主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

  マルコによる福音書166

 

  主イエス・キリストは十字架にかけられて確かに死なれました。そしてそのお体は十字架から降ろされて岩で掘って作った墓に納められ、そのまま安息日が始まりました。そして安息日が終わって週の初めの日の朝早く、女性の弟子たちは待ちかねたようにイエスの墓に急ぎました。行って見ると、入り口をふさいでいた大きな石はわきに転がしてあり、墓の中をのぞくことができました。中に入ると、驚くことに墓の中には天使と思われる若者がいて、彼女たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられません。御覧なさい。お納めした場所である。」と語ったのです。イエスのお体が墓の中にないことを示し、それは主イエスが復活なさったからだと告げたのです。神の御業によって復活が起こったのだというのです。

 

さらに弟子たちとペテロとに伝言を託されました。「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」弟子のペテロは主イエスが捕らえられたとき、主イエスを3度も否認してしまい、裏切ったことで随分苦しみ悩んでいました。そのペテロを、神はなおも信頼し、期待し、ガリラヤでお目にかかるというのです。その弱い者に復活された主イエスが現れて励ましを与えて下さるのです。

 

2017年4月9日 礼拝説教要旨

2017年4月9日

十字架上の主イエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第15章21-39節

 

主題聖句:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。      

 マルコによる福音書1534

 

 主イエスは人々に神の愛を伝え、人々の病を癒した救い主であり、何の罪も犯していない方なのに、自らをユダヤ人の王と主張して人々を惑わしたと人々から訴えられて、裁判で十字架につけられることが決まり、遂に十字架につけられてしまいました。その裁判の時も十字架の時も、主イエスは何の弁解もせず黙ってその苦しみを耐え続けられました。

 

昼12時になったとき、全地が暗くなり、それが三時まで続き、三時になったとき、主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。この叫びは神に向かっての叫ぶような祈りです。ご自分の死が間近に迫っている中で、死の恐ろしさを思い、ご自分が神から見捨てられたと感じられたのだと思われます。

 

見捨てられること、神から見捨てられることは大変恐ろしいことです。

 

主イエスが神から見捨てられたのは、実は私たち人間の罪を受けとめられて、人間の負うべき罪の大きさを感じられたからです。使徒パウロはそのことをこう説明します。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント5:21)神のご計画によって、私たちを罪から救うために、罪のないイエスを十字架につけられ、私たちの身代わりに裁かれ、見捨てられてくださったのです。

 

2017年4月2日 礼拝説教要旨

2017年4月2日

主イエスの沈黙

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第15章1-15節

 

主題聖句:しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。                  

  マルコによる福音書155

 

  ユダヤ人の最高法院は主イエスに対して死刑の判決を下しました。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、死刑判決の権限はローマのユダヤ総督に置かれていました。それで、ユダヤの指導者たちは翌朝、主イエスを総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑にするように訴えたのです。そこで、ピラトは裁きの座にイエスを立たせ、イエスに罪があるかどうかを取り調べ始めました。

 

そこでユダヤの指導者たちは、イエスをいろいろと訴えました。しかし、主イエスはそれに対して何の弁解も反論もせず、終始黙り続け何もお答えになりませんでした。裁判官ピラトが不思議に思う程、沈黙されたのです。その姿は、イザヤ書53章の主のしもべの姿です。神に選ばれた一人のしもべが人々の罪の責任を自分の身に引き受けて、人々に代わって罰せられ、苦しみ、死ぬのです。このしもべは、何の弁明もせず抗議もせず、黙って苦しみに耐えたのです。主イエスは、ご自分を落としいれようとする人々に対して黙ったまま自分に与えられた道を進まれるのです。

 

その沈黙される主イエスの姿は、ただ我慢し耐え続けておられるのではありません。父なる神の御心に従い、ご自分に与えられた使命の道に進もうとされる姿です。それは、人々が裁かれないで罪から救い出されるために自分のいのちを捨てようとされる、犠牲の愛の姿です。

2017年3月26日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

ゲッセマネの祈り

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

マルコによる福音書1436

 

 

 主イエスは弟子たちと最後の晩餐の時を持たれた後、ゲッセマネの園に行かれました。そこに着くなり、主イエスは弟子たちの前でひどく恐れてもだえ始められました。ご自分が死ぬばかりに苦しいから一緒に祈ってほしいと弟子たちに語られ、ご自分の心の中の苦しみを隠されませんでした。

 

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと、上記の言葉で祈られたのです。

 

このとき、主イエスは、何を苦しんでおられたのでしょうか。「この杯」(神の裁き)を自分から取りのけてくださいとの祈りはどういう意味の祈りなのでしょうか。私たち人間はいつか死を迎えます。そして死んだ後、一人一人神の前に自分の行いに対して神の裁きを受けなければなりません。しかし、私たち人間はそんなに悪いものとは思わず、自分が罪深いかを知りません。その結果として神の裁きのあることも知りません。ですから自分たちがいつか迎える死をなんとなく恐れてはいても、死後の裁きについて意識できないのかもしれません。意識できなくても私たちはそのままなら裁かれてしまいます。そのようなよく分かっていない私たちの姿を主イエスはご存じだから、私たちの受けなければならない神の裁きをご自分が背負おうと苦しみ祈り、私たちを救うために十字架に進まれたのです。

2017年3月19日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

最後の晩餐

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章12-26節

 

主題聖句:一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」    

マルコによる福音書1422

 

 主イエスの最後の晩餐は、過越の食事であったと、マルコによる福音書は記しています。「除酵祭の第一日」にユダヤ人たちはこの日から1週間家中からパン種を除き過越の日と出エジプトの救いの出来事を思い起こし過越の食事をしたのです。

 

 弟子たちも当然のようにして過越の食事を準備しようとしたとき、主イエスによって指定された場所に行き、過越の食事の準備をし、そのように準備された場所で、主イエスと12人の弟子たちは一緒に席につき食事をしました。

 

その食事の席で、主イエスは聖餐式を制定されました。主イエスはパンを取り、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取りなさい」

 

「取りなさい」とは、あなたはこれを取って食べなければならないという主イエスの命令です。主イエスは、ご自分が弟子の裏切りによって捕えられて殺されることを知っておられました。その主を裏切る弟子や主を見捨てていく弟子たちのために、パンを裂くように、主御自身はご自分の体を裂かれるのです。それを取りなさいと命じられたのです。「これはわたしの体である」。これは主イエスの体そのものであると示されました。ご自分の全部を、十字架でご自分の肉体を引き裂かれることによって与えられるのです。信仰をもって頂く時、私たちにキリストが命を与えられます。

2017年3月12日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

信仰の祈り

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第11章12-14節 20-25節

 

主題聖句:そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。           

マルコによる福音書119

 

 

 そこに葉の茂ったいちじくの木がありました。しかし、主イエスが近寄ってみると、葉のほか何もなかったのです。主イエスは救い主としてエルサレムに入られ、このいちじくの木に、エルサレムの町の人々の信仰の姿を重ねてご覧になったのです。壮大な神殿が建ち、鳩を売り、両替する商人が忙しく働いています。犠牲をささげる祭りが盛大に行われていました。多くの人の目には、立派な礼拝がささげられているように映りました。しかし、主イエスの目には葉ばかり茂らせて実のないいちじくの木と同じに映ったのです。神の民であるイスラエルの民に真の信仰を持っている姿を見い出したかったのです。けれども、全くなかったのです。それで、主イエスはイスラエルをいちじくの木に見立てて、これをさばき、枯らしてしまわれたのです。

 

主イエスが求められた実とは何でしょうか。「神を信じなさい」。悔改めて神を信じる信仰です。自分の思いや都合のために神に協力してもらおうとすることを止めて、自分の弱さと罪を知って、神のみを信じることです。私たちも、葉ばかり茂らせて実のないいちじくの木のような信仰生活をする危険があります。主イエスは、「少しも疑わず…信じるならば」と言われます。神を信じて祈る時、全能の神の力が働き、聞かれるのです。

 

2017年3月5日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

主の名によって来られる方

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第11章1-11節

 

主題聖句:そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。  

マルコによる福音書119

 

イエス一行がエルサレムに近づいていました。エリコからベタニアを通って都に入ろうとしていました。その時、イエスは子ろばを見つけて、それに乗って入城しようとされました。それは、ゼカリヤ書9章9節にあるように、来るべき王が子ろばに乗って入城されるとの預言を行動で示されたのです。

 

子ろばが見つかり、その子ろばにイエスはお乗りになってエルサレムに入っていかれました。その姿を見た人々は、自分の上着を次々にイエスの歩まれる道に敷き、またほかの人々は野原から葉のついた枝を切ってきて道に敷きました。そして人々は行列を作って「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫びました。

 

「ホサナ」の本来の意味は、詩編118:25にある「どうか主よ。わたしたちに救いを」という意味なのですが、この時の人々には、祝福され、栄光あれ、万歳という叫びでした。それは、彼らが、イエスが子ろばに乗って入城される姿を見て、イエスこそこの世の権力者として自分たちの国をローマ帝国から救い出してくれると期待したからです。今こそ、イエスによって救いが来たと叫んだのです。しかし、イエスは軍事的な王となられません。自ら身を低くして、人々に苦しめられ、嘲られ、十字架にかかられるために進んで行かれ、人々を罪から救い出してくださるのです。

2017年2月26日 「盾(たて)」小島誠志師記

2017年2月26日

 

盾(たて)

 

            あなたはわたしの盾、わたしの栄え。

        詩編 3編 4節

 

神は、槍や刀や弓矢のような斗う武器である、とは言

われていません。逆にそれらの武器の攻撃を防ぐ「 盾 」

と呼ばれているのです。

神の民は敵の攻撃にさらされていますが、そのさ中で

彼らを守り抜くことによって神は御自身の「栄え」(栄光)

を見せてくださるのです。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに

羊を送り込むようなものだ」(マタイ10章16節)

羊が、羊飼いに守られながら 狼の群れの中を歩き通す

ことが、信仰の証になるのです。

 

(小島誠志師 記)

 

2017年2月19日 礼拝説教要旨

2017年2月19日

何をしてほしいのか

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章46-52節

主題聖句:イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。  

マルコによる福音書1051

 

主イエスは、エリコを出て、いよいよ都エルサレムに向かって進もうとされたとき、その道で盲人のバルティマイが物ごいをしていました。彼はナザレのイエスと知って「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。イエスを「ダビデの子」と言ったのは、昔ダビデ王に約束された、ダビデの子孫から救い主が起こされ、ユダヤを救ってくださるとの約束を信じたからです。彼は、イエスを、約束の救い主と信じて、このように叫び、憐れんでくださいと懇願したのです。

 

その必死な叫びが主イエスに届き、彼は呼ばれました。彼は上着を脱ぎ捨て、主イエスの所に来たら、主イエスから「何をしてほしいのか」と問われました。その時、彼ははっきりと「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。彼は、長い間目が見えない状態が続くうちにもう不可能かと思っていたでしょう。でも目が見えるようになりたいという願いを、今、主イエスに求めたのです。主イエスをまことのメシアと信じてお願いしたのです。その願いは、目が見えるようになったらそれでいいと言うことではなかったはずです。目が見えるようになって、目の前におられる憐れみ深い主イエスを見て、ついて行きたいということでありました。

 

主イエスは、彼の目を見えるようにして下さいました。私たちも主イエスを見せてください、救って下さいと祈るなら、そうしてくださるのです。

あゆみ

年間行事

お知らせ


関連リンク
日本アライアンス教団
松山のぞみ幼稚園

ページトップへ戻る