ホーム > あゆみ > 【きょうどう】カテゴリの記事一覧

あゆみ

2017年5月21日 礼拝説教要旨 

2017年5月21日

最も重要な戒め

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章28-34節

 

主題聖句:そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

マルコによる福音書1233

              

「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。神の掟は、本来は神から人間が健やかに生きる道として与えられたものです。しかし、人がその掟を一生懸命守ろうとするあまり、守ろうとして掟が増えて多くなり、しかもどれも守らなければならなくなり、どれが大切な戒めかよく分からなくなっていたのです。それで、律法学者は、主イエスに尋ねたのです。

 

すると、主イエスは、神を愛し、隣人を愛するこの2つの戒めが一番重要だと答えられました。神を愛すること。それは、神が私たち人間を創造され、愛され救い出して下さったのだから、全身全霊をもって神を愛さなければならないのです。もう一つは、隣人を愛することです。隣人とは、私たちと同じように神によって創造され愛されている存在です。彼らを自分のように愛すべきなのです。自分が神から愛されているようにその人も神から愛されているのだから、その人を愛するのです。この2つの戒めが最も大切な戒めだと主イエスは言われました。

 

しかし、神を愛し隣人を愛することを本気で実行することは簡単ではありません。守ることができず、神から遠い存在である私たちです。そんな私たちのために、主イエスは十字架に向かわれるのです。「あなたは神の国から遠くない」と呼びかけ、神の愛の中に招いてくださるのです。

 

2017年5月14日 礼拝説教要旨

2017年5月14日

生きている者の神

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章18-27節

 

主題聖句:イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 マルコによる福音書122425

 

 私たちは、より充実した日々を過ごそうと励んでいますが、いつか死の時が来ます。死んだ後どうなるのでしょうか。

 

ある時サドカイ派の人々が主イエスに質問しました。彼らは現世だけがすべてで、死後の復活も死後の裁きもないと考えていました。その質問は長男が子なしに妻を残して死んでしまった。次男から始まって6人の弟がその妻と結婚したが、その兄弟も子を残すことはなく死んでしまった。もし復活があるとすれば、この婦人は誰の妻となるのか、というものでした。

 

主イエスはその質問に対して、あなたがたは聖書の言葉の表面だけを見て議論していて、聖書を人間を正し、生かし、支えてくれる力があると知ろうとしていないと嘆かれました。その上で、復活はこの世界の延長線ではありません。天国はこの地上とは全く違い、結婚も出産も病気も老いることも死ぬこともありません。きよめられて、一人一人が直接キリストと神に結ばれて永遠の祝福の中に生きるのです。天上の体、霊の体に変えられて神の前に生きるのです。

 

神は永遠に生きておられ、私たちを愛し私たちの神となって下さる。生きている時だけでなく死後も神の前に生かされる、と教えられたのです。

 

2017年5月7日 礼拝説教要旨

2017年5月8日

神のものは神に返しなさい

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章13-17節

主題聖句:イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。

 マルコによる福音書1217

 

 

 「皇帝に税金を納めるべきでしょうか。納めてはならないのでしょうか。」と納税反対派と納税賛成派が一緒になって主イエスに尋ねて来たのです。どう返答するかによって、主イエスを陥れようとの下心のある質問 でした。

 

主イエスは直接答えられず、彼らにデナリオン銀貨を持って来させて、「その銀貨には誰の肖像と銘があるのか」と尋ねられ、その銀貨をよく確認するように求められました。

 

その銀貨には、皇帝の肖像と銘がありました。そして銀貨に皇帝の肖像と銘があることは、皇帝の権威と支配を示しており、皇帝の支配によって経済流通の秩序が支えられていることを示していたのです。そのように皇帝の権威と支配によって支えられているのであれば、皇帝の恩恵に対して税金によって返していくべきと主イエスは答えられたのです。

 

それに加えて、「神のものは神に返しなさい」と言われました。「神のもの」とは、神の権威と支配の及ぶところです。神の造られたものすべて、神によって創造された私たち人間も神のものです。皇帝も神のものです。私たち人間が神のものですが、主イエスの犠牲によってなお一層神に近づけられています。神のものとされていますから、神に感謝し歩むのです。

 

2017年4月30日 礼拝説教要旨

2017年4月30日

ぶどう園のたとえ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章1-12節

主題聖句:まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

 マルコによる福音書166

 

 ユダヤの指導者たちが主イエスに向かって、何の権威で、その教えやその働きをするのか、だれがそのような権威を与えたのか、と尋ねました。それに対する答えを、主イエスはたとえによって示されました。

 

そのたとえが、マルコ12:1~11です。「ある人」は父なる神を表し、「農夫たち」は神の民イスラエルを表しています。イスラエルの民は神から良く準備された素晴らしい環境を与えられ、よく世話をすることを期待されていました。時が経ち、神に収穫をささげるべきとき、イスラエルの民は神から遣わされた預言者たちを侮辱し、殺してしまいました。イスラエルの民は神を忘れ、神の言葉を退け、自分が主人となろうとしたのです。

 

そういう侮辱を受けてもなお神はイスラエルの民に働きかけられます。最後に愛する息子を送るのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と誠意をもって彼らを信頼し期待して愛する息子を送り出すのです。彼らが神を敬ってくれることを願っての行動です。

 

しかし、たとえでは「農夫たち」はその神の思いをあざ笑うかのようにその息子を殺してしまいます。このたとえは神の御子イエスを殺してしまうことを暗示していました。けれども神はこの殺された息子の死と復活をもって、救いを成し遂げられるのです。人の目には不思議な御業です。

 

2017年4月23日 礼拝説教要旨

2017年4月23日

聞いて信じる

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章5-11節

 

主題聖句:その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 マルコによる福音書1614

 

 

 主イエスはむごい十字架にかけられて確かに死なれ、そのお体は十字架から降ろされて墓に納められました。その事実に、彼ら弟子たちは全く気力を失っていました。週の初めの日の朝早く、墓にいた女性の弟子たちが、墓の中で、天使と思われる若者から「あの方は復活なさって、ここにはおられません。」と言われて、震え上がって恐れるばかりでした。天使の言葉を聞いても信じられなかったのです。

 

その日、復活された主イエスは、マグダラのマリアにご自身を現されました。その復活された主イエスの姿を見たマリアは主イエスが復活されたと認め、その喜びを仲間に伝えました。しかし、仲間たちは彼女の伝えることを聞いても信じることができませんでした。

 

その後、11人の弟子たちが食事をしている時、復活された主イエスがその場に現れ、彼らの不信仰とかたくなな心をとがめられたのです。主イエスは彼らに、復活を目撃した人々の証言を聞いて信じることを願っておられたからです。しかし、復活された主イエスは、その彼らに、福音の宣教を託されたのです。それは、復活の主イエスから聞いて信じて教えられた者が、皆に伝えてほしいからです。聞いて信じることが大切なのです。

2017年4月16日 礼拝説教要旨

2017年4月16日

あの方は復活なさった

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章1-8節

 

主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

  マルコによる福音書166

 

  主イエス・キリストは十字架にかけられて確かに死なれました。そしてそのお体は十字架から降ろされて岩で掘って作った墓に納められ、そのまま安息日が始まりました。そして安息日が終わって週の初めの日の朝早く、女性の弟子たちは待ちかねたようにイエスの墓に急ぎました。行って見ると、入り口をふさいでいた大きな石はわきに転がしてあり、墓の中をのぞくことができました。中に入ると、驚くことに墓の中には天使と思われる若者がいて、彼女たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられません。御覧なさい。お納めした場所である。」と語ったのです。イエスのお体が墓の中にないことを示し、それは主イエスが復活なさったからだと告げたのです。神の御業によって復活が起こったのだというのです。

 

さらに弟子たちとペテロとに伝言を託されました。「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」弟子のペテロは主イエスが捕らえられたとき、主イエスを3度も否認してしまい、裏切ったことで随分苦しみ悩んでいました。そのペテロを、神はなおも信頼し、期待し、ガリラヤでお目にかかるというのです。その弱い者に復活された主イエスが現れて励ましを与えて下さるのです。

 

2017年4月9日 礼拝説教要旨

2017年4月9日

十字架上の主イエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第15章21-39節

 

主題聖句:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。      

 マルコによる福音書1534

 

 主イエスは人々に神の愛を伝え、人々の病を癒した救い主であり、何の罪も犯していない方なのに、自らをユダヤ人の王と主張して人々を惑わしたと人々から訴えられて、裁判で十字架につけられることが決まり、遂に十字架につけられてしまいました。その裁判の時も十字架の時も、主イエスは何の弁解もせず黙ってその苦しみを耐え続けられました。

 

昼12時になったとき、全地が暗くなり、それが三時まで続き、三時になったとき、主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。この叫びは神に向かっての叫ぶような祈りです。ご自分の死が間近に迫っている中で、死の恐ろしさを思い、ご自分が神から見捨てられたと感じられたのだと思われます。

 

見捨てられること、神から見捨てられることは大変恐ろしいことです。

 

主イエスが神から見捨てられたのは、実は私たち人間の罪を受けとめられて、人間の負うべき罪の大きさを感じられたからです。使徒パウロはそのことをこう説明します。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント5:21)神のご計画によって、私たちを罪から救うために、罪のないイエスを十字架につけられ、私たちの身代わりに裁かれ、見捨てられてくださったのです。

 

2017年4月2日 礼拝説教要旨

2017年4月2日

主イエスの沈黙

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第15章1-15節

 

主題聖句:しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。                  

  マルコによる福音書155

 

  ユダヤ人の最高法院は主イエスに対して死刑の判決を下しました。しかし、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありましたので、死刑判決の権限はローマのユダヤ総督に置かれていました。それで、ユダヤの指導者たちは翌朝、主イエスを総督官邸に連れて行き、総督ピラトに死刑にするように訴えたのです。そこで、ピラトは裁きの座にイエスを立たせ、イエスに罪があるかどうかを取り調べ始めました。

 

そこでユダヤの指導者たちは、イエスをいろいろと訴えました。しかし、主イエスはそれに対して何の弁解も反論もせず、終始黙り続け何もお答えになりませんでした。裁判官ピラトが不思議に思う程、沈黙されたのです。その姿は、イザヤ書53章の主のしもべの姿です。神に選ばれた一人のしもべが人々の罪の責任を自分の身に引き受けて、人々に代わって罰せられ、苦しみ、死ぬのです。このしもべは、何の弁明もせず抗議もせず、黙って苦しみに耐えたのです。主イエスは、ご自分を落としいれようとする人々に対して黙ったまま自分に与えられた道を進まれるのです。

 

その沈黙される主イエスの姿は、ただ我慢し耐え続けておられるのではありません。父なる神の御心に従い、ご自分に与えられた使命の道に進もうとされる姿です。それは、人々が裁かれないで罪から救い出されるために自分のいのちを捨てようとされる、犠牲の愛の姿です。

2017年3月26日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

ゲッセマネの祈り

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

マルコによる福音書1436

 

 

 主イエスは弟子たちと最後の晩餐の時を持たれた後、ゲッセマネの園に行かれました。そこに着くなり、主イエスは弟子たちの前でひどく恐れてもだえ始められました。ご自分が死ぬばかりに苦しいから一緒に祈ってほしいと弟子たちに語られ、ご自分の心の中の苦しみを隠されませんでした。

 

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと、上記の言葉で祈られたのです。

 

このとき、主イエスは、何を苦しんでおられたのでしょうか。「この杯」(神の裁き)を自分から取りのけてくださいとの祈りはどういう意味の祈りなのでしょうか。私たち人間はいつか死を迎えます。そして死んだ後、一人一人神の前に自分の行いに対して神の裁きを受けなければなりません。しかし、私たち人間はそんなに悪いものとは思わず、自分が罪深いかを知りません。その結果として神の裁きのあることも知りません。ですから自分たちがいつか迎える死をなんとなく恐れてはいても、死後の裁きについて意識できないのかもしれません。意識できなくても私たちはそのままなら裁かれてしまいます。そのようなよく分かっていない私たちの姿を主イエスはご存じだから、私たちの受けなければならない神の裁きをご自分が背負おうと苦しみ祈り、私たちを救うために十字架に進まれたのです。

2017年3月19日 礼拝説教要旨

2017年3月26日

最後の晩餐

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章12-26節

 

主題聖句:一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」    

マルコによる福音書1422

 

 主イエスの最後の晩餐は、過越の食事であったと、マルコによる福音書は記しています。「除酵祭の第一日」にユダヤ人たちはこの日から1週間家中からパン種を除き過越の日と出エジプトの救いの出来事を思い起こし過越の食事をしたのです。

 

 弟子たちも当然のようにして過越の食事を準備しようとしたとき、主イエスによって指定された場所に行き、過越の食事の準備をし、そのように準備された場所で、主イエスと12人の弟子たちは一緒に席につき食事をしました。

 

その食事の席で、主イエスは聖餐式を制定されました。主イエスはパンを取り、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取りなさい」

 

「取りなさい」とは、あなたはこれを取って食べなければならないという主イエスの命令です。主イエスは、ご自分が弟子の裏切りによって捕えられて殺されることを知っておられました。その主を裏切る弟子や主を見捨てていく弟子たちのために、パンを裂くように、主御自身はご自分の体を裂かれるのです。それを取りなさいと命じられたのです。「これはわたしの体である」。これは主イエスの体そのものであると示されました。ご自分の全部を、十字架でご自分の肉体を引き裂かれることによって与えられるのです。信仰をもって頂く時、私たちにキリストが命を与えられます。

あゆみ

年間行事

お知らせ


関連リンク
日本アライアンス教団
松山のぞみ幼稚園

ページトップへ戻る