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あゆみ

2020年2月23日 礼拝説教要旨

2020年2月23日

  いのちを与える方

三好晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第6章1-15節

 

 

 

 主題聖句: さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座ってい

る人々に分け与えられた。    

ヨハネによる福音書 第6章11節

 

主イエスが山に登られ、弟子たちと座っていたところに、大勢の群衆がやってきました。群衆の近づく姿をご覧になった主イエスは、弟子たちに聞きました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。主イエスは彼ら群衆を深く憐れみ、彼らにパンを食べさせたいと思われたのです。

 

でも、弟子たちは、自分たちで食べさせるには、どのくらいのお金がかかるか計算し、それに必要なパンを用意するのは無理だと思ってしまいました。そんなとき、弟子の一人が、主イエスのもとに一人の少年を連れてきました。この少年が大麦パン5つと魚二匹を持っていますと伝えました。でも、この弟子には、大勢の人たちに食べさせるには、このわずかなものでは何の役にも立たないと思いました。

 

しかし、主イエスは、このわずかなものであっても、今御自身がしようとしておられることを行う準備が整ったと判断されたのでしょう。弟子たちに命じて人々を座らせました。そして、主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、座っている人々に分け与えられました。人々に欲しいだけ与えられたところ、人々が満腹したのです。

 

主イエスがパンを取り、父なる神に感謝の祈りをささげられ、そのパンを人々に分け与えられたということは、主イエス・キリストが一人一人にいのちを与えるお方であることを教えています。

2020年2月16日 礼拝説教要旨

2020年2月16日

 良くなりたいか

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第5章1-18節

 

 

主題聖句: イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気

であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。

                  ヨハネによる福音書 第5章6節

 

エルサレムに「ベトザタ」と呼ばれる池があり、その池の水が動く時、真っ先に水に入った人は、どんな病気にかかっていても癒されると信じられていました。それで、病気を抱えた人たちが皆、その池の回廊に横たわって、水が動くのを今かと待っていたのでした。そこに38年も病気で苦しんでいる人もいました。そこに主イエスは来られて、その人をご覧になり、その人が長い間病気であるのを知って、声をかけられたのです。「良くなりたいか」。この言い方は、分かり切ったことを聞く問いかけのように思えます。でも、意味深いもののように思えます。直訳をすると、「あなたは病気が治るようになることを願っていますか」となります。彼は自分が長い間病気で苦しみ、この池に来ていてもなかなか治るチャンスが来ないまま、ずっとここにいました。この問いかけは、彼の心にあった求めをもう一度呼び起こすことになりました。

 

しかし、彼は、「主よ、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。」と言い訳を言いました。でも、自分の本当の求めを呼び覚まされたこの病人に、主イエスは、あなたが良くなりたいと願うのなら、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と励まされたのです。すると、この人は、主イエスのみ言葉に込められた御力に押し出され、主イエスの言葉に従ったとき、彼はしっかりと歩き出すことができたのです。

2020年2月9日 礼拝説教要旨

2020年2月13日

 真理は自由にする

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第8章21-36節

 

 

主題聖句: あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

         ヨハネによる福音書 第8章32節

 

今日、私たちは憲法によって基本的人権など様々な自由が保障されていて、法律の範囲内で自分の思いのままに行動することが許されています。自由を保障する国で自由な生活できることはありがたいです。でも、内的にも自由はあるかというと、様々な束縛や窮屈さがあります。世間体に、うわさに、しきたりに、因習や慣習に結構縛られています。欲望や罪の奴隷になっていないでしょうか。

 

今日の御言葉に、この奴隷とか自由のことが取り上げられています。このことは、私たちが人間として生きていく上で大切な問題です。

 

主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。」と言われました。主イエスの本当の弟子となるためには、主イエスの語られた言葉にとどまることが大切だというのです。主イエスの言葉にとどまることは、主イエスの言葉に聞き続け、主イエスの言葉に立って生きることです。主イエスと親しく交わり、主イエスが自分の内にあるように主の言葉を心にとどめることです。そのようにしていくならば、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というのです。真理とは何でしょうか。本当のことです。それは主イエス・キリストのご人格と密接に関係のあるものです。主イエスこそ真理です。真理であるイエスは、私たちを罪から解放し、本当の自由に生きるようにしてくださるのです。

2020年2月2日 礼拝説教要旨

2020年2月2日

 まことの神殿

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章13-20節

 

 

主題聖句:イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」     

    ヨハネによる福音書 第2章19節

 

ユダヤ人の過越祭が近づき、主イエスが都エルサレムに上られた時のことです。祭りの時、エルサレム神殿に各地からユダヤ人が大勢集まり、境内では献げ物のための生き物等が売られたり、献金のための硬貨に両替をする商売人が商売をしたりして、礼拝者の便宜を図っていました。その状況をご覧になられた主イエスは、突然、縄で鞭を作って、ささげ物用の生き物たちを追い出し、両替のお金をまき散らし両替の台を倒したりしました。どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。その心には、当時の礼拝のあり方に対して、人々の礼拝する態度に大きな問題があると感じられ、熱い思いでそのようになさったのです。

 

これを見たユダヤ人指導者たちは、どういう権限があって、こんなことをするのか、しるしを見せろと詰め寄りました。その問いに対して答えられたのが、上記の御言葉です。「この神殿を壊してみよ」。当時の神殿の内部に問題があり、そのための解決が必要と感じておられたのです。「三日で建て直す」とはどういうことか、その意味は誰も分からなかったのですが、主イエスが復活されたあと、弟子たちに分かったことです。それは、後に、主イエスが人々に捨てられ、十字架に付けられてしまいます。それは人間の罪を背負って十字架で贖いを成し遂げられることでした。そして三日目に死人の中から復活されて、主イエス・キリストの復活の体を通して、私たちを神に結び合わせて下さったのです。

 

2020年1月26日 礼拝説教要旨

2020年1月26日

 最初のしるし

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第2章1-11節

 

 主題聖句:ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。     

ヨハネによる福音書 第2章3節

 

ガリラヤのカナで婚礼があり、その婚礼に主イエスも招かれて出席していた時のことです。当時の婚宴において、ぶどう酒は不可欠な飲み物でした。ですから、途切れないように十分に用意しておいたはずです。それなのに、めでたい祝宴が盛り上がっている最中、突然ぶどう酒がなくなりかけるという非常事態が起きてしまいました。

 

このままなら、盛り上がっている祝宴に穴をあけてしまう。楽しい席が白けてしまうかもしれません。台所にいる人たちは、残り少なくなったぶどう酒をどう補充したらよいか、方法も見つけられず、不安の中にあったのです。私たちの人生にも、「ぶどう酒がなくなる」というような困ってしまうことが起こることがあります。

 

そういう時、イエスの母は非常事態に直面し苦しむ親戚の新婚の二人、その家族を思い、何とかできないか必死に考えたのです。その時に、ここにイエスがいると気づいたのです。そしてこの窮状をイエスに伝えたのです。けれども、イエスの答えは、何かよろよそしい印象を与えるものでした。イエスのお考えがあり、自分に託された使命の時がまだ来ていないと言うのでした。しかし、その上で、イエスは人間の一つ一つの欠乏、必要に心を留め、その苦しみ困難を助けてくださるのです。主イエスは、僕たちに指示を与え、僕たちの従順な行動を用いて、喜びがなくなりそうであったところを、喜びの場に変えてくださいました。

 

2020年1月19日 礼拝説教要旨

2020年1月20日

 来なさい。そうすれば分かる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第1章35-51節

 

 

主題聖句: イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。

             ヨハネによる福音書 第1章39節

 

最初にイエス・キリストを救い主と信じる信仰を持った人、それは、洗礼者ヨハネの弟子たちですが、どのように信じるようになったのか。

 

洗礼者ヨハネが主イエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と証言したので、それを聞いたヨハネの弟子たちは深く心揺り動かされ、この方をもっと知りたいと、イエスのあとに従いました。その姿を見たイエスは振り返り、「何を求めているのか」と尋ねられました。こう問われた彼らは「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。彼らは、今こんなところで立ち話でわかるものではないという思いがあったのでしょう。どこまでもイエスについていくことによって、得ることができると考えたのでしょう。それで先生の泊まっているところに自分も行きたいと求めて尋ねたのでしょう。

 

すると、イエスはこう言われました。「来なさい。そうすれば、分かる」と。この言葉は、御自分の泊まっている場所がどこか、来てみたら分かりますという意味だけのものではなく、まずイエスを信じて、イエスのおられるところにとどまりなさい、そうすればイエスがどんな方か分かります、という意味も込められています。神様が分かり、救い主が分かるのは、まず信じてみることです。信頼してみて分かるのです。

 

2020年1月12日 礼拝説教要旨

2020年1月12日

 ヨハネの証し

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第1章29-34節

 

 

主題聖句: その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

ヨハネによる福音書 第1章29節

 

洗礼者ヨハネは、主イエスが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見たので、この方が、神の御子救い主と確信し、証ししました。

 

ヨハネは、この方に向かって「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と紹介したのです。「神の小羊」とはどんな意味か、その背景にある旧約聖書の言葉を二つ見たいと思います。

 

一つは、過越しの小羊であられるということです。出エジプト記12章を見ますと、旧約時代、イスラエルの民はエジプトの王によって奴隷として虐げられていました。そんな彼らを神は救い出すために過越しの御業をされたのです。ある夜、神の使いが家々を訪れ、その家の入口に傷のない小羊の血が塗ってあるならそのしるしを見てその家の中の者を過ぎ越す。それがなければ、神から裁かれるのです。信じたイスラエルの民は過越しの小羊によって助けられ無事エジプトを脱出できました。

 

もう一つは、イザヤ書53章の苦難のしもべの預言です。一人の僕が人々の罪や過ちのために本来受けるべき神の裁きを代わって受けるというのです。その結果、人々は裁きを免れ、平安がもたらされる。ほふり場に引かれていく小羊のようにその人は口を開かない。そのような人物は、苦難の中何も言わないで十字架へと引かれて行かれたイエス・キリストの姿と重なります。ヨハネは、イエスこそ神の小羊と証ししました。

2020年1月1日 元旦礼拝 説教要旨

2020年1月5日

 宣教の始まり

三好晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章12-25節

 

 

主題聖句: そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

 

マタイによる福音書 第4章17節

 

新年の始めにマタイによる福音書4章12節~22節を、神様が私たちに与えられた御言葉としてこの御言葉の恵みを覚えたい。

 

宣教は、主イエスが公に救い主として福音を宣べ伝えたことによって始まりました。そのきっかけは洗礼者ヨハネが捕えられたことを主イエスが聞かれ、ガリラヤに退かれたことでした。ヨハネの力強い伝道は終わたので、主イエスは神の導きと確信しガリラヤに進んで行かれたのです。ナザレから離れて、主イエスはガリラヤのカファルナウムに来て住まわれたのです。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現すためであったのです。

 

その預言には、異邦人が多く住むガリラヤで「暗闇の住む民は光を見る」とありました。光を失い、希望もなく、絶望的な暗闇のような状態にある人々が真の光を見るのです。その預言どおりに主イエスがガリラヤ地域に光として現れ、そこに光を照らされたのです。

 

主イエスの宣教は、「天の国が近づいた」との宣言です。神様の国、すなわち、神のご支配がイエスという神の御子によって近づいているのです。イエスと共に神が近づいています。だから、「悔い改めよ」です。自分の内にある罪を認め、神様に向いて神様を認めなさいというのです。今も主イエスは私たちに呼びかけておられます。神の支配は主イエスによって近づいています。この方に心を向け神様に立ち返りましょう。

2019年12月29日 礼拝説教要旨

2019年12月29日

心からの献げもの

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第2章1-12節

 

主題聖句: 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。      

 

マタイによる福音書 第2章11節

 

クリスマスは、プレゼントの季節です。プレゼントは、愛する者が相手に贈るものです。プレゼントというと、いただくものという思いがあるかもしれませんが、今日は、人に差し上げることについて考えてみたいと思います。相手にプレゼントを準備してそれを贈ることだけでもうれしいことですが、東方の博士たちのようにイエスさまに贈り物を献げることを考えてみたいと思います。私たちは、主に何をささげているでしょうか。この1年に与えられた主の祝福を覚える時、神様にどんな感謝をささげたらよいでしょうか。そのことを思いつつ、東方の博士の献げものについて学びたいと思います。

 

東方の博士たちは、東方で星を調べるうちに、特別に輝く星を見つけ、調べるうちに、この星がユダヤ人の新しい王が生れたことを知らせる星であると確信したのです。そうとわかって彼らは、新しい王にぜひとも会いたいと行動を始め、はるばるエルサレムに来ました。彼らはユダヤの王ヘロデに、その王はどこにいるかを尋ねましたら、聖書学者が示したのが、ベツレヘムでした。彼ら博士は、神のお導き、星と聖書に導かれて、遂に幼子イエスのいる家に着きました。彼らは幼子を見てひれ伏し拝み、自分たちの贈り物をささげました。彼らに倣い、私たちも主イエス・キリストを信じ、心からの献げものをささげましょう。

2019年12月22日 礼拝説教要旨

2019年12月22日

 言は肉となって

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第1章1-14節

 

 

主題聖句:言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

            ヨハネによる福音書 第1章14節

 

クリスマスの出来事、すなわち、救い主イエス様がお生れになったということは、ヨハネによる福音書を書いたヨハネによれば、「言が肉となって、私たちの間に宿られた」ことだと言うのです。

 

 

「言は肉となって」。「言」とは何を示しているのでしょうか。それを知る手がかりは1章1節にあります。「初めに言があった」。神が天地を創造された初めの時、「言」であるお方はすでに存在していたということです。創造されたとき、神は「光あれ」と命じて、光を造られました。そのように言葉を持って創造されました。ですから、「言」は神の御意志、神の御思いを示しています。「言は神と共にあった」。言は御父なる神と最も近い関係にあるのです。「言は神であった」。イエスが地上においでになる前に神と共におられ、神であられたお方です。このお方が人に命を与え、人々に光をもたらしたのです。

 

 

このように言であられるお方、天地万物を創造される前から存在しておられたお方、創造の業に関わられたお方が、歴史のある時、肉となられたのです。人間と同じ性質を持つものとなられたのです。これは、驚くべきことです。闇の中にあって神を知らなかった私たち人間を、何としても愛されたゆえに、表わされた神の恵みの御業です。

 

そして、「私たちの間に宿られた」。言であるお方、すなわち、神の御子イエスは人となって、私たちの間に住み込んで共に歩まれたのです。

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