2023年6月25日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.26  あなたが信じたとおりに

ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。                  

マタイによる福音書 第8章8節

 

主イエスは多くの人々をいやし、奇蹟を行われました。マタイによる福音書8~9章にそのうちの幾つかが記されています。今日は、そのうちの百人隊長のしもべのいやしに注目します。

百人隊長は、ローマの軍隊で、百人の部下を持つ隊長で、ユダヤ人の町の治安の維持に当たっていました。彼に仕えるしもべが、中風という病気になって、体が身動き取れず苦しんでいたのです。その苦しむしもべを見た隊長は何とか助けてあげたいと手を尽くしました。主イエスのうわさを聞き、このお方ならば、しもべをいやすことができると信じ、主イエスにしもべを治してくださいとお願いしたのです。

それを聞かれた主イエスは行っていやしてあげようと応じてくださいました。でも、隊長は、自分は異邦人であり、ユダヤ人のような神の選びから漏れている者と認め、家に迎えることを辞退しました。「ただ一言、おっしゃってください。そうすれば、わたしのしもべは癒されます」と、その一言を願ったのです。

この申し出に、隊長の、主イエスの権威を信じる絶大な信仰が表わされています。主イエスはこの隊長の信仰を大変喜ばれました。そして「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われました。丁度その時、しもべの病気はいやされたのです。

2023年6月18日 礼拝説教要旨 山下晃文 師

きょうどう-2023年 No.25 『主は私達の愛をご存じです』

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。   

                    ヨハネによる福音書21:15

 

  今日の話は、復活されたイエス様が、三度も弟子達に現れて食事を共にされた後の話です。そこでイエス様は、ペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われました。するとペトロは、悲しい気持ちになったと言うのです。と言うのは、ペトロはイエス様が逮捕された時に、イエス様を知らないと三度言って、イエス様を裏切っていたからです。しかしそれにもかかわらずペトロは、この時復活されたイエス様に「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言ったというのです。当初ペトロは最後までイエス様を愛し抜くつもりでした。しかしその人間愛には限界があったと言うことでしょう。しかしペトロはここで自分がイエス様を愛していることは、イエス様はご存じだと言っています。つまりイエス様は、御自分を裏切ったペトロを赦して、彼の限界のある人間愛もまた御自分への愛だと認めてくださっている・・・それをペトロは知っていると言っているのです。

2023年6月11日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.24  子どものように受け入れる

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。      

 マルコによる福音書 第10章14節

 

本日は、「こどもの日」「花の日」という教会の記念日にふさわしいこととして、礼拝の中で子どもの成長と祝福を祈る時を持ちます。

そのことに関連するみ言葉を学びます。今日の箇所に、主イエスに触れていただこうと人々が子どもたちを連れてきたとあります。その時、弟子たちはこの人々を叱ったのです。それは、弟子たちから見て、主イエスがあまりにもお忙しいからこれ以上主イエスを困らせないように守ってあげるのが自分たちの役目と思い、子連れの人々を叱ったのです。

すると、主イエスは弟子たちを憤られたのです。何を怒られたのでしょうか。それは弟子たちが自分たちの権威を濫用し、傲慢にも正しくない態度を取ったからです。子どもたちが主イエスに近づくことを妨げた。それは不当な扱いだと怒られたのです。なぜなら、「神の国はこのような者たちのものである」からです。

主イエスはいつも「神の国」を教えておられました。神の国は神が王となって支配される国です。神のご支配が主イエスにおいて地上に表わされているのです。この神のご支配がこのような者、すなわち、子どもたちのような者にこそ与えられているのです。子どもたちのような小さな弱い存在を、神は愛し、見守っておられ、祝福してくださるのです。

2023年6月4日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.23  イエスは救い主

あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」           

使徒言行録 第2章36節

 

先週28日、聖霊が降ったことを記念する礼拝を持ちました。

主イエスが天に上られた後、弟子たちはじめイエスを信じる人たちが約束の聖霊を求めて、一か所に集まって祈っていたところ、五旬節というユダヤ人の祭りの日に、祈っていた彼らの上に聖霊が降り、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままにほかの国々の言葉で語り出したのです。

エルサレムに集まって来ていたユダヤ人たちが、その大きな物音を聞きつけて集まって来たとき、弟子たちの大胆に語っている姿を見て大変驚きました。新しいぶどう酒に酔っているとあざける者もいました。

そこでペトロは、声を張り上げて語り出したのです。自分たちがこのように語るのは、預言者ヨエルの預言の通り、神の霊が注がれたのだと語りました。皆さん、ナザレの人イエスのことを、なさった御業を見てよく知っているのに、あなたがたはこの方を総督ピラトに訴えて十字架につけて殺してしまいました。こうなったのは、神の定められた計画であり、神のあらかじめご存じのことでした。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して復活させられたのです。自分たちはこのイエスが復活され、復活の姿を現わされたのを見た証人です。この方は神の右の座に上げられて約束の聖霊を送ってくださったのです。 ですから、十字架に付けられたイエスを、神は救い主となさったと知るべきです。

2023年5月28日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.22  聖霊の降臨

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。              使徒言行録 第2章4節

 

本日は、聖霊降臨日です。ペンテコステ(第五十)とも言われます。

復活された主イエスが天に上られる前に、弟子たちに「聖霊が降る」ことを約束しておられました(ルカ24:49、使徒1:5)。それで彼らは皆一つ所に集まって心合わせて熱心に聖霊を祈り求めて待っていました。

「五旬祭」。五十日目の祭。ギリシャ語で「ペンテコステ」と呼ばれるユダヤ教の祭の時も、彼らが一つになって集まっていたところ、突然激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らの座っていた家中に響き、炎のような舌が分かれ分かれに現われ、一人一人の上にとどまったのです。すると、一同が聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままにほかの国々の言葉で語り出したのです。彼らが聖霊に導かれて、大胆に語り出したのです。

彼ら弟子たちは、人前で語る勇気を持っていない人たちでしたのに、そんな彼らが今、人々の前で大胆に語り始めたのです。しかもほかの国々の言葉を語り出したのです。その物音を聞きつけて集まって来た天下のあらゆる国から帰って来た信心深いユダヤ人たちは、目の前で弟子たちが自分の故郷の言葉で神の御業を語るのを聞いてあっけにとられてしまいました。聞いている人々自身が、理解できる言葉で語られたのです。このような証しによってキリストを信じる人々が起こされたのです

2023年5月21日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.21  託された大切な使命

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。                        

 マタイによる福音書第28章19節

 

このみ言葉は、復活された主イエスが天に上げられる直前に、地上に残していく弟子たちに託された大切な使命です。

この使命を伝える前提が、「わたしは、天と地の一切の権能を授かっている」という主イエスの権能です。主イエスは、権威ある教えをなさり、人の罪を赦す権威をお持ちであり、病や悪霊を追い出す建機をお持ちの方でした。その方が、神の御心に従い、十字架の死にまで従われましたが、神の御力によって死者の中から復活され、すべての支配と権威の上に立たれたのです。イエスは主であり、すべてを支配しておられます。この偉大な権能をお持ちの主イエスが、弟子たちに、そして主イエスを信じる者たちに託された使命がこれです。「行って、すべての民を主イエスの弟子とする」ことです。

すなわち、主イエスがまことの救い主であると人々に知らせることです。それは、主イエスが私たちを愛し、私たちを救うために、ご自分のいのちを捨てて救いを成し遂げられたお方だからです。この愛と救いによって私たちは神の前に罪赦され、救いを頂きました。この救いによって私たちは生かされています。すべての人にも、自分が受けた救いを受けて幸せになってほしいものです。私たちの愛する家族や友が、主イエスが救い主であると知ることができますように信じて祈ろう。

2023年5月14日 M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

きょうどう-2023年 No.20  イエスの歩まれた従順の道

 

神を愛する多くの人々が、信仰によって聖霊を内にいただきながら、落ち着きのない生活をしているのが現状です。不当に非難されたり、中傷されたりするとイライラしてくるのです。…疑い、迷い…ついに自分の人間的な経験によってものごとを判断し…暮らすようになります。

愛する皆さん。多くの人々がこの点でつまずくのは無理もないことですが、聖霊は私たちを人間として完全な者にするわけでもないのです。正直に言って、多くの信者は、聖霊が神の目でご覧になるような「自我の醜い姿」を私たちに示そうと望んでおられることを知らないと思います。だから人々は醜い自我をそのままにして、せっかくイエス・キリストの十字架の死にあわそうとする神のみこころに従いません。

さて、死にあわされる道とは、おのれを低くする従順の道のことです。イエスの歩まれた道は、従順に十字架の死へ進む道でありました。イエスはご自身を低くして、神の御子にふさわしくない人間の姿をとられました。これはイエスが…進んで創られたものの姿をとって、私たちのところに来てくださったということです。これは非常に意味の深いことで、私たちには知り尽くすことはできませんが、さらに主は、私たちに仕える者として…最低の立場に身を置く人間になられました。こうして十字架の死に至るまで従順であられたのです。…主が私たちに望んでおられるのは…このような態度ではないでしょうか。M・フランシス著「聖霊に満たされてから」の引用

2023年5月7日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.19  友と呼んでくださる主

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。 

                    ヨハネによる福音書第15章15節

 私たちは、キリストを主と信じ、キリストの尊い血によって買い取られた者たちです。すなわち、キリストの奴隷です。罪の奴隷であった者でしたが、キリストの血によって買い取っていただき、キリストの奴隷となった者たちです。しかし、主イエスはこう言われました。あなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶと言われました。何という特権でしょうか。キリストが「わたしの友」と呼んでくださる間柄に私たちを入れてくださったのです。

昔アブラハムは「神の友」と呼ばれました。「神の友」と呼ばれたアブラハムに対して、神はこう言われました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」(創世記18:17)神はアブラハムにご自分のしようとしておられるご計画を示されたのです。

そのように、私たちキリスト者にも主イエスは「友」と呼んでくださいます。ということは、父なる神から聞いたことを皆私たちに知らされるのです。主イエスは、これからなさろうとしておられるすべてのご計画、御心を私たちに示してくださるのです。主イエスは私たちのために命を捨てて私たちを愛してくださいました。それゆえ、私たちは、主の御心をいつでも知ることができるのです。

2023年4月30日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.18  命のパンであるキリスト

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。

                           ヨハネによる福音書第6章35節

 

主イエスの語られた「わたしが命のパンである」という言い方は、何とも大胆な言い方ではないでしょうか。わたしが命のパンを与えると言われたのではありません。命のパンを用意しますと言われたのでもありません。わたしそのものが命のパンであると言われたのです。

パンと言うと、私たち人間の健康を保たせるために欠かせない食べ物です。主イエスはどういう意味でこう言われたのでしょうか。それは、ご自分が天の父なる神の独り子であり、その神から遣わされて人間となって共に歩んでいる者である。罪深い人間を救うために、神の御心に従って、神のいのちを与える者だという意味でこう言われたのです。

それに続く主イエスの言葉がとても重要なことになります。「わたしのもとにくる者」と言われました。その意味は「わたしを信じる者」と言うことと同じ意味です。心を込めて主イエスの御前に出ることであり、主イエスを信じることです。主イエスを信じ受け入れるとき、私たちは飢えることがなく、渇くことがないのです。私たちの日頃食べるパンは腹一杯食べてもいつか空腹になります。しかし、命のパンそのものである主イエスを私たちが信じる時、主イエスの命に満たされ、喜びと感謝をもって生きることができるのです。

2023年4月23日 礼拝説教要旨

きょうどう-2023年 No.17  まさしくわたしだ

こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

                            ルカによる福音書第24章40節

 

先週、悲しみながらエマオに向かう二人の弟子に見知らぬ人(復活された主イエス)が一緒に歩かれて、旧約聖書全体からメシアの苦難と栄光を教えられ、復活の主ご自身を現されたので、彼らは、イエスが復活されたと信じたということを学びました。

喜んでエルサレムに引き返した彼らを含めて弟子たちが家の中で話し合っていた時、彼らの真ん中に主イエスが立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。シャロームというあいさつの言葉というだけでなく、彼らに主イエスの平安をお与えになりました。

しかし、彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思ったのです。その彼らに対し、主イエスは「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」(38,39節)と言って、ご自分の手と足をお見せになられました。主イエスの両手、両足には、十字架刑で傷ついた生々しい釘の傷跡があったことでしょう。それを見た弟子たちは、この方が間違いなくイエスと分かり喜びに溢れました。喜びのあまりまだ信じられずに不思議に思っていると、主イエスは彼らの目の前で、差し出された焼いた魚を食べられました。そのようにして主イエスはご自分が亡霊ではなく、からだをもって復活されたことを示してくださったのです。