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あゆみ

2016年8月28日 礼拝説教要旨

2016年8月28日

嵐を静めるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第4章35-41節

主題成句:「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」

マルコによる福音書4章39節

 

 主イエスがガリラヤ湖の岸に集まって来た群衆に向かって、岸近くで舟の中から話を続けられていましたが、夕方になりました。『向こう岸に渡ろう』と主イエスは勧められ、弟子たちは主イエスを舟に乗せたまま向こう岸に向けて漕ぎ出しました。

岸を離れて沖に出た時でしょうか、激しい突風が起こり、舟は波をかぶり、水浸しになるほどでした。この状況に弟子たちは大変慌てふためきました。その時、弟子たちの目に入ったのが、主イエスが艫(とも)の方で枕をして眠っておられる姿でした。主イエスは大きく舟が揺れる中にも安心して眠っておられたのです。その姿を見た弟子たちは苛立ちを覚え、主イエスを起こして、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と不平不満を言ったのです。

 

私たちも、実はこの弟子たちの様です。人生の中で激しい嵐が起こって、身の危険を感じたとき、神様は何もして下さらない、眠っておられるのではないかと思い、不平不満が起こります。神様を起こし助けを求めます。そんなとき、主イエスはどうしてくださるのでしょう。この時は、起き上がって、風を叱り、「黙れ。静まれ」と言われたところ、すぐに風はやみ、すっかり凪になりました。その時、主イエスは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちをお叱りになりました。

 

それは、舟が風や波で揺れ動いた時も、主イエスが一緒におられると信じるべきではないかという励ましです。主イエスは、彼らと共におられたように、私たちと共におられ守ってくださるのです。

 

2015年7月26日 礼拝説教要旨

2015年7月26日

開けよ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第7章31-37節

 

主題聖句:「…たちまち 耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった。」      

                               マルコによる福音書第7章35節  

                                

人の話しを聞いていない人がいます。音声としては耳に届いているのでしょう。しかし、相手に心を閉ざし聞く耳をもたないと、そうなります。面白いもので、人が自分のことを褒めてくれる話なら、喜んで聞き耳を立てます。逆に悪口を言われていると感じると、すぐに、耳を塞ぎます。自分の悪口ではなく、人の悪口だとわかると、喜んで聞きたがるでしょう。つまり、自分の都合次第なのです。身勝手と言われても仕方ありません。

 

人に対する態度がこうなのですから、素直に心を開いて、神様からの語りかけを聞くことなどできるはずがありません。罪はこのようにわたしたちの聞く力にまで染み込んでいます。

 

自分は口が重く、しゃべりは上手でないと思っていても、自慢話になると、とたんに饒舌になります。誰でもそうです。そのくせ、神様をほめたたえたり、感謝をささげたりはいたしません。魂だけではなく、体の各部分、すなわち耳も、舌も、唇もすべて主イエス・キリスト様によって救われなければならないのです。指を両耳に差し入れ、ご自分の唾を人の舌につけ、癒やしを行われる前に天を仰ぎ、主イエスは、深く嘆息されました。 (34節)その人をまるごと救うために、主イエス様はものすごい力をお使いになります。そのお姿から、これから向かってゆかれる十字架を連想します。救いの業はイエス様にとっても、生易しいことではありません。

 

いやされた人は口止めされたにも拘わらず、自分の経験を語らないわけにはいきませんでした。解き放たれた舌は神を褒めざるをえないのです。

2015年5月31日 礼拝説教要旨

2015年5月31日

語らせる神・聖霊

 

政所 邦明 牧師

 

使徒言行録 第2章1-13節

 

主題聖句:「…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」                 

使徒言行録第2章11

                                   

「聖霊なる神様は、あなたたちのところへ必ず来られます」と主イエスは使徒たちに言われました。「聖霊が使徒たちの上に降られる」…これは、父なる神様の約束でもあります。だから「父の約束を待て!」と主は繰り返されました。その時が復活から50日目にきます。祈って備え、〝聖霊降臨〟を待っていた使徒たちの群れについに聖霊がくだられました。

 

この時、自分たちだけに分かる言葉を使徒たちは語ったのではありません。聞いている人にもちゃんと理解できたのです。5旬祭のため、世界各地からユダヤ人たちが巡礼で、エルサレムに来ていました。土地によって言語も違うはずです。ガリラヤの人々から「神の偉大な御業」を、巡礼者たちは聞くことになります。しかも、“聞いても分かる”のです。これは各地に住むユダヤ人たちにとって驚きであったに違いありません。

 

「わたしたちの言葉で」とは、聖霊を受けた使徒たちの言葉がよく理解でき、内容が〝心に届いた〟というのでしょう。「罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス様の名によってあらゆる国々の人々に宣べつたえられる」と復活の主は予告されました。(ルカ24:47) その約束が実現し、世界宣教の開始を予感させる出来事が聖霊降臨の日に起こったのです。聖霊を受けた人々の言葉が、自分とは関係のない〝他人ごと〟ではなく、自分たちに向けて語られた内容であると聞く人々に分かりました。自分たちにも通じる言葉で、救いが語られている出来事に人々の心が動き始めます。「イエス様を主」と告白する信仰へと導くのは聖霊のお働きによるのです。

2015年3月29日 礼拝説教要旨

2015年3月29日

最後の晩餐

 

政所 邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第22章14-23節

 

主題聖句:「『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』

ルカによる福音書 第22章19節 

                                   

過越しの食事の時です。パンを取り、それを裂いてから上記の言葉を主イエスは言われました。〝人間とは体だ〟と言った人があります。主イエスが言われる〝体〟とは、肉体も精神も魂(宗教心)も、まるごと含めた〝その人全部〟あるいは〝その人そのもの〟を指しています。主イエス様はまるごとすべて、命さえも、わたしたちにくださるのです。

 

その後、杯をも同じように使徒たちに与えられます。そして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました。“血が流される”とは死傷者が出ることを間接的に意味します。先述の〝体〟は肉体に流れる血液も含みます。肉の部分も血の部分もすべてイエス・キリストはわたしたちのために差し出してくださるのです。裂かれた肉体から血が流れ出る。明らかにご自分の十字架の死を指し示しておられます。「与える」…イエス・キリストの方から準備し、積極的に与えようとなさいます。わたしたちの救いのために主イエスの犠牲はどうしても必要でした。わたしたちの心は鈍く、「そんな必要がありますか」などとキョトンとしています。過越しの食事の席で、「これぞ、わたしの体。これぞ、わたしの血」とおっしゃって、これから起こることの意味を前もって解き明かされます。十字架の上で、肉体を裂かれ、血を流されることとこれらの言葉とは結びつかないかもしれません。しかし、あらかじめ出来事の意味を解き明かしていなければなりませんでした。過越しの小羊として、わたしたちの救いのために命を投げ出してくださることを明かにしてくださったのです。

 

2015年3月22日 礼拝説教要旨

2015年3月22日

葬りの用意

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第14章1-11節

 

主題聖句:「…前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。…この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」

マルコ14:8,9

 

高価な香油を主イエスの頭に、ひとりの女性が注ぎました。香油の入った壺を壊したのですから、全部を主イエスのために献げるつもりです。この行為に主は、最大級の褒め言葉をお与えになります。「できるかぎりのことをしてくれた」(8節)「どこでも福音が宣べつたえられる所では、この行為が記念して語り伝えられるだろう」(9節)この預言のお言葉は的中します。福音を聞く教会ではこの婦人のしたことが礼拝で読まれ、それを味わうようになりました。〝埋葬の準備〟としての香油注ぎです。

 

祭司長たちが主イエス殺害を計画している緊迫した場面です。しかし、この女性が見据えているのは〝死〟の更に先の埋葬です。なんと気の早い支度でしょうか。体全体に塗ろうと思えば、かなりの量の香油が必要となり、壺を壊すのも納得できます。

 

使徒信条では「死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」と告白します。死は葬りによって確定し、キリストは死んだ人のゆく〝陰府〟にまでお降り下さいました。死後3日間も経っています。「完全な死を経験してくださった」と使徒信条は念を押しているかのようです。そうまでして、人を罪から救おうとなさいます。それに応えて〝できるかぎり〟の感謝と敬意をこの婦人は、行動で現しました。無実の人の非業の死だから主イエスの死を悼むのではありません。人を救ってくださるからです。それを福音として聞く教会は、埋葬される主に感謝を献げるのです。

2015年3月15日 礼拝説教要旨

2015年3月15日

恵みに踏みとどまれ

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章12-14節

 

主題聖句:「…短く手紙を書き、…これこそ神のまことの恵みであることを証しました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。」

ペトロの手紙一 512

 

 ご一緒に読んで、礼拝をしてきたペトロの手紙一も最後の部分になりました。パウロは目の病気を患っていたと言われています。十分に字を書くことができず、いわゆる〝口述筆記〟をしたのかもしれません。その際の助け手がシルワノです。それでも最後の挨拶は自筆で書いたと考えられます。たくさん書けない分、訴えたいことを短く凝縮したのでしょう。全体を一言でまとめて「これこそ神のまことの恵み」(12節)と申しました。

 

この手紙で「恵み」と新共同訳聖書に訳されている文字は9個です。もとの言葉は「恵み」でも、日本語にする場合、別の言葉に訳されたものが2つあります。「恵み」を「御心に適う」と訳しました。(第2章19、20節)不当な苦しみ、善を行っても苦しみ、それを耐え忍ぶなら、それは神の「恵み」、御心に叶い、神がお喜びになることだとペトロは言ったのです。

 

「恵み」には「与えられる」という修飾語が付いています。(1章10,13節) いくら神が与えられるとしても、苦しみはいやで避けたいものです。しかし、手紙を受け取る諸教会は苦しみと試練の中に置かれていました。迫害が起こっているのかもしれません。そのような情況を知りつつ、主イエスが十字架で不当な苦しみを受け、ご自分の尊い血で、先祖伝来の空しい生活からあなたがたを救ってくださったとペトロは語りました。最後にもう一度「これこそ神のまことの恵み」と念を押したかったのです。神の恵み以外にキリスト者が苦しみに耐えて立つ場所はないからです。

2015年3月1日 礼拝説教要旨

2015年3月1日

謙遜を身につけよ

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章 5-7節

 

主題聖句:「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい」              

(ペトロの手紙一 第55)

 

 2章は主人の身分にある人、奴隷の身分にある人、またそれぞれ家庭で夫と妻の立場にある人々への勧めでした。これは何もキリスト者だけに限ったことではなく、信仰を持たない人にも当てはまる倫理でしょう。

 

ところが5章に入りまして、まず長老たちへ勧めます。「神の羊の群れを牧しなさい。」(5:2)「羊の群れ」とは教会です。つまり教会内の秩序について扱っています。長老たち、すわなち、教会で指導的な立場にある人と若い人たち、すなわち信仰に入ってまだ日の浅い信者たちがお互いどのように接すればよいかペトロは薦めているのです。

 

長老たちは、自ら進んで、献身的に群れ全体の世話をするように求められます。この世で経験したことをたくさん蓄えているでしょう。しかし、世と世の欲の危うさと、信仰に立たないでこの世の知識に頼ったため、失敗に陥った体験も持っているかもしれません。先輩の信仰者たちにペトロが期待するのは、この世を愛するよりも神を愛して苦難を切り抜けた信仰を長老たちが後輩に伝えることなのです。

 

若者たちは自信過剰に陥り、年配者たちの信仰経験を軽く見る傾向にあります。「頑固で融通がきかない」と決めつけてしまいます。考えが浅はかなのです。教会での年長者と若い人とは互に謙遜になることを求められます。キリストが神であられたのに人となられたクリスマスに、キリスト者同士の謙遜の原点があるのです。

 

2015年2月22日 礼拝説教要旨

2015年2月22日

自らすすんで

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一  第5章1-2節

 

主題聖句:「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。…神に従って、自ら進んで世話をしなさい。」 

(ペトロの手紙一 第52) 

 ヨハネによる福音書第21章によれば、ティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で復活なさった主イエス・キリストはペトロに現れなさいます。そして、「わたしを愛するか」と3度も尋ねられるのです。3度聞かれたのでペトロは〝悲しくなった〟(21:17)とあります。「あなたを愛していることはご存知です」とペトロは答えました。3度愛するかと聞かれただけではなく、愛するのであれば、イエス様の羊を世話し、養うように3度も念を押されます。主イエスを愛するのと、このお方の羊たち、すなわち信仰者の群れ・教会の世話をすることとは切っても切れない関係にあると主が言われたのです。この出会いと会話は鮮烈にペトロの心の中に残り、その後の使徒ペトロの人生の目標を決定づけたことでしょう。その時のご命令を繰り返すように「神の羊を牧しなさい」と、仲間の長老たちに勧めます。

 

この課題は何もペトロひとりに限りません。教会の指導者全員に負わされたものです。信仰者はキリストの尊い血によって贖われた群れです。イエス・キリストによって罪赦され、救われました。この者は〝神の教会〟と呼ばれています。ペトロたち指導者のものでもありません。信仰者たちの勝手な思いから「自分たちのものだ」と主張することも許されません。

 

「キリストの支配と所有に入れた群れが教会である」と自覚すると、長老たちはどのように振る舞い、指導すべきかが自ずと見えてきます。キリストが望まれるように、キリストを信じる群れにふさわしく整えるのです。

2015年2月15日 礼拝説教要旨

2015年2月15日

自らすすんで

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章1-2節

 

主題聖句:「…わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人…として…」

(ペトロの手紙一 第51) 

 

 いよいよこの手紙も締めくくりの部分に入ってゆきます。2章3章では「奴隷と主人」「妻と夫」へのそれぞれの勧めがありました。そのような関係においてキリスト者はどう立ち振舞うかを勧めたのです。それぞれの立場の違いによって摩擦は生じるものです。信仰者であろうとなかろうと関係なく、どのような両者間の関係においても、起こりうるでしょう。

 

ところが第5章からは〝長老の一人として〟ペトロは勧め始めます。明らかに教会内の秩序についての教えです。直接の相手は教会の指導者である長老たちです。ペトロは自分のことを〝キリストの受難の証人〟と呼びました。それを聞くと「本当にそうかなあ?」と疑問を持たれるかもしれません。ペトロを始めとして11人の使徒たちは主イエスが十字架にかかられた時には蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったからです。

 

〝受難の証人〟とは十字架の場面に立ち会ったかどうかだけを指してはいないでしょう。ヨハネからの受洗、ガリラヤでの宣教、十字架にかかり、甦り、天に挙げられた…それらのすべての出来事をつぶさに証言できる人つまり―主のご受難と復活の証人―であるとペトロは言いたいのです。

 

威勢の言いことを言っておきながら、いざとなると3度も主イエスを知らないと否認し、逃げ去ったペトロです。そのペトロに復活の主は自ら現れ、立ち直らせてくださいました。裏切っても、弟子として呼ばれた時から、ペトロを〝苦難の証人〟にするつもりで神はおられたのです。

2015年2月8日 礼拝説教要旨

2015年2月8日

主に魂をゆだねて

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第4章17-19節

 

主題聖句:「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。」

(ペトロの手紙一 第419) 

 ここで用いられている「時」は“ちょうどこのタイミング”“ドンピシャ”を意味する言葉が用いられています。どのような時でしょうか?その時には万物の終わりが迫り、緊迫感が伴うのです。(4:7)また、その時にはキリスト者の身に試練がふりかかります。(4:12)

「裁き」とは有罪として罰を与える、懲らしめるというのではありません。むしろ、その全段階の裁判を意味します。つまり正邪2つに選り分けるということでしょう。信仰者にとって試練は金属の〝精錬〟になぞらえられます。(1:7)高熱で溶かされ、金粕の部分と純度100%の金属とに分けられます。単に純粋なだけではありません。鎚で打たれて鍛えられる鋼に似ています。「裁き」は「鍛錬」なのです。

 

「裁き」はキリスト者をさらに神ご自身の清さにふさわしく整えて、さすがに神様のものにされたと言われるようにしてくださることです。それは品性が向上したとか、今までになかった技量が急に身につくということではありません。「聖徒」とはキリストのものとされた人という意味であって、高潔の人物ということとは違います。神様から深く愛されていることを知るようになる…それこそが「裁き」の成果なのです。日本語から連想するのとはずいぶん違います。試練とか苦難は神さまとの信頼関係、絆を強くします。それこそが試練の真価と言えるでしょう。「裁き」は精錬です。「裁き」は刑罰以外にこんなにも積極的意味があるのです。

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