2012年1月29日 連載(きょうどう No.5)

ルカによる福音書第15章「失われた息子(二人の息子)の譬え」についての黙想    (連載 第9回) 前回は昨年10月30日

 

前回の主旨:弟は「父から離れれば、自由になる」と思った。それは幻想であった。飢餓と渇望とが広がる。

今回 :弟はわれに返る。「悔い改め」

   「わたしの父には多くの雇い人がいる」 困窮の果てに弟息子は、身勝手の故に自分が捨てた父を思い出す。この父の姿が自分の帰ってゆく方向を指し示す。目を覚まし「我に返った」弟は〝息子である権利と資格〟を当然のこととして主張しなくなった。その権利を回復してくださいとは言わず「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました(19節)と言おう!」弟は心の中で決意する。「父よ、赦してください。私は失われた息子です。」―いや、もはや息子とも呼んでもらう資格もない。雇い人の一人にしていただけるのなら、望外の喜びだ。しかし、その許可も主人の恩恵一つに掛かっている。― 父の家の息子として生きることは不自由だと思い込んでいた。その人間が、今まことに謙虚になり、雇い人として父の家で自由を得ようと願うようになった。父の家が窮屈なところではなく、自由な居場所と思えた。住まわせてもらえるのであれば、雇い人の一人でも、もちろん構わない。だが、自分勝手な振る舞いを考えるとその願いすらも厚かましいようにも思える。このような慎ましい望みも、赦しを与える父の胸一つに掛かっているのである。(続く)

2012年1月22日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、

今では他の一切を損失と見ています」

フィリピの信徒への手紙第3章8節

説教主題「キリストに頼る」

 クリスマスの期間に途絶えていたフィリピの信徒への手紙の連続説教に戻ります。この手紙は「喜びの手紙」であると申しました。それと同時に「戦いの手紙」でもあるのです。パウロが伝え、フィリピの信徒たちが受け入れていた信仰とは異なっている、教会の信仰の根本を揺るがしかねない人々やものの考え方が入って来ました。この人たちの一番の問題点は「キリスト・イエスを誇りとせず、それ以外のものを頼りにする」ことです。

 パウロは生粋のイスラエル人、つまり、神の選びの民族の一員であること、さらには自分で努力した律法に対する忠実さを誇りに思っていました。イエス・キリストを信じる以外に何も持たないのであれば、キリストにすがりつくほかないでしょう。ところが豊かなものを持っていれば、かえって手放すことが難しく、持っているものを誇りたくなります。パウロに比べれば私たちは何も持たないと言えるでしょう。それでも手元に残っている何がしかの僅かなものを自分の〝寄るべ〟(頼りになるべき根拠)としたくなります。

 自分を支える価値の根本的な転換がパウロに、起こりました。それまで、誇りに思っていた生い立ちや律法への忠実さなどを損失とみなすようになったのです。価値を無理に代えようとしたのではありません。イエス・キリストを知る絶大な価値に気がついて、キリストの恵みに捉えられたのです。自分の誇りでなく、キリストを誇るようになったのです。

2012年1月15日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために弟子たちにたとえを話された」

 ルカによる福音書 第18章1節

説教主題「失望なき祈り」

 このやもめはこれまでの歴史の中に現れた教会を象徴しているように思えます。主イエスの生きられた当時のやもめは、社会的に不利な立場にあり、民事のもめごとなどでも理不尽な扱いを受けることもしばしばであったようです。ですから自分が正当に扱われようと思えば、裁判官に訴える以外にありません。困り果て、無力で、しかも自分は正しいと思っています。頼みとするのは裁判官だけです。厄介な状況の中で、なすすべもなく、神にせがみ、神ご自身が義を貫いて下さるように求める弟子たちの共同体(教会)とやもめの姿は重なります。
ところがたとえ話に出てくる裁判官は頑ななのです。「神など畏れないし、人を人とも思わない」が2度繰り返されます。裁判官自身がそのように豪語します。やもめがどんなに懇願しても取り合ってもらえそうにありません。しかし、やもめはこの裁判官のもとにひっきりなしにやってきます。それは裁判官が「さんざんな目に合わされるかもしれない」と脅威を感じるほどでした。「殴られるかもしれない」というのが元の意味です。「人を人とも思わない」裁判官を恐れさせ、ついには裁判をするところにまでやもめはもってゆきます。
神はこの裁判官と似ても似つかぬ義なる方です。その方は速やかに裁きをし、ご自分の義を貫いて下さいます。〝神の義の実現には絶望するな!〟〝信じて耐えよ!〟…望みを持ちつつ耐えるように主イエスはこのたとえ話を通じて励まして下さるのです。