2012年5月27日 礼拝説教要旨

主題聖句:「わたしはエポディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」      

フィリピの信徒への手紙4章2節

説教主題「喜びの確認」

 エポディアにしてもシンティケにしても、この箇所にしか出てこない固有名詞です。二人が婦人でフィリピの信者の交わりをつくりあげるのにパウロと共に戦ったということくらいしかわかっておりません。(3節)ただ、どうも二人は仲違いしているようで、「主において同じ思いを抱け」と名指しでパウロから勧められています。良いことで手紙に名前を書かれるならまだしも、同じ思いが持てないことで勧められると、恥ずかしかったし、反論したい気持ちもあったかもしれません。その後2000年、キリストの教会で、このような形で名が残ることになるとはこの二人、夢にも思わなかったでしょう。「あの二人仲が悪かったんだって」と言われるより、「あの二人はお互い同士を愛しあい、赦しあう関係だった」と言われる方が良いに決まっています。

 パウロは、自分だけが罪を犯したことがなく、公正な裁判官の立場に立って、過ちを糺してやろうとしているのではありません。自分も主イエス・キリストに罪赦されたものとして、勧めているのです。「勧め」は「お説教」をする(ガミガミと小言を言う)ことではなく、「慰める」のです。この二人の婦人が勧めの言葉を受け入れてくれるように「真実な協力者」に助力を求めます。高みから叱られただけでは、二人は心を閉ざし反発するだけかもしれません。この「協力者」とは「共にくびきを負うもの」という意味があります。この婦人たちだけを悪者にせず、執り成し助ける仲間の存在が、「慰め」には必要なのです。

2012年5月20日 礼拝説教要旨

主題聖句:「このように主によってしっかりと立ちなさい。」

         フィリピの信徒への手紙3章20節

説教主題「しっかり立て!」

 

 赤ちゃんはハイハイからつかまり立ちをして、トコトコと歩き始めます。初めはおぼつかなくて、今にも転びそうです。見ている方はハラハラします。しかし、歩いているうちに筋力が鍛えられ強くなるのか、手すりや支柱にすがらなくてもしっかり独り立ちできるようになります。

 「(あなたがた)は立ちなさい」と命令法で訳されている元の単語は「(あなたがたは)いま立っている」という直接法と同じ綴り字です。綴りからだけでは区別がつかないので、「あなたがたは今立っています」と訳しても差し支えありません。主イエス・キリストに支えられてしっかりとすでに立っているのです。キリストが杖となり、柱となってくださいます。自分の力で無理に踏ん張って立つ必要はありません。「主によって」と書いてあります。むしろ自分の力を捨て、主イエス・キリストの力によってのみ生きようとするかどうかにすべてがかかっているのです。

 何もキリスト様のお世話にならなくても、自分の力で充分に立っていけるとうぬぼれていると、足元を救われてしまいます。〝危ない〟と気が付いていなければさらに性質が悪い。

 キリストによって救われ、キリストの力によって生きている人のなかには 目に見えない〝キリスト〟というしっかりとした芯棒が大地から大空に向かってそびえています。「キリストに支えられてあなたがたは既に立っている」「もっと、このお方に全体重を預け、この方によってだけ、これからも立って歩いていきなさい」と言われているのです。

2012年5月13日 礼拝説教要旨

主題聖句 「…わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」         

フィリピの信徒への手紙3章21節

説教主題「栄光ある体に」

  先週は「わたしたちの本国は天にあります。」という御言葉をご一緒に聞きました。「本国はいま生きている地上とは別のところにある」と申しますと、ともすれば、今の生活をないがしろにして、地上から離れ、空想の理想的な世界に逃げ込むということになりかねません。現実逃避ではなく、神の勝利を信じて、非常に具体的に自分の救いの完成を待つのです。救い主イエス・キリストが今神の右に坐しておられるところから、救いを完成してくださるために来てくださるのは確実な揺るぎのない事実であることを確信するのです。この地上のことだけにしか望みを持てないとしたら、こんなに虚しいことはありません。被造物は移ろいゆき、色あせ、やがて朽ちて無くなってしまうからです。

 しかし、天を本国とするものは救い主イエス・キリストが来られた時、復活なさった栄光の体に変えられます。これは私たちが勝手に思い込んで、でっち上げたのではありません。神の約束に基づくのです。ローマの信徒への手紙第8章29節に「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。」とあります。―神が決めておられる―なんと安心なことでしょうか。不安定なわたしたちの気分には左右されません。確かな基盤を持ちます。だとすれば、地上の生活をなおざりにもせず、かといってしがみつきもしません。

2012年5月6日 礼拝説教要旨

主題聖句:「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、待っています。」

フィリピ3章20節

説教題「我らの国籍は天にあり」

 わたしたちの親しんだ口語訳には〝本国〟ではなく、〝国籍〟となっておりました。キリスト教の信者さんの墓石に「我らの国籍は天に在り」と刻んであるのを時々見かけます。〝国籍〟の方が馴染み深いかもしれません。〝本国〟というと外国の宣教師や外交官を思い浮かべます。指令は本国からきます。しかし、後方にあって現地の最前線にいる人々を支えるのも本国です。これらの人々は異国の地で生活していても本国の法律で守られています。

 〝天〟とは今わたしたちが生きているこの世、地上の世界と相対立する所です。地上と相対するものとして、コロサイの信徒への手紙第3章1節では〝天〟ではなく、「上」という言葉を用います。そこには復活され、高挙された主イエス・キリストが神の右の座におられます。キリストが救い主として君臨し、支配を及ぼしておられる場所といっても良いでしょう。パウロ先生が「わたしたちの本国は天にあります」というとき、つまり〝わたしたちは救われている!〟と言っているのです。きっと力の籠った大きな声に違いありません。―その本国からイエス・キリストがすでに始まっている救われた生活を完成するために来てくださる。―キリストが来てくださることを待ちわびて、待ち遠しくして仕方がないという気持ちが伝わってきます。それは、永遠の世界にあこがれるあまり、今の地上の生活を忘れ、おろそかにするのではありません。キリストを待ち焦がれる信仰が、現実の戦いを耐え抜く力となるのです。