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あゆみ

2012年7月29日 日曜礼拝(音声) 相澤弘典師

2012年7月29日

2012年7月29日 日曜礼拝(賛美) 相澤弘典師

2012年7月29日

2012年7月29日 日曜礼拝(動画) 相澤弘典師

2012年7月29日

2012年7月29日 神の義について(本日の説教と別の内容です。)

2012年7月29日

 

「神の議について」

 

政所邦明牧師

 

「…今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが今この時に義を示されたのは…」

ローマの信徒への手紙3章25節、26節

  「筋を通す」と言う言葉があります。「物事の道理を曲げない」、「一つのきちっとした筋道を貫き通す」ことです。妥協する誘惑と戦わなければなりません。「智に働けば、角が立つ。情に棹(さお)させば流さる」(漱石)しかし、筋が通っていれば、一時は反発されても、「筋を通す人」は次第に信頼を受けるようになるはずです。

神が「ご自分の義を貫き通される」とはどういうことでしょう。神の喜ばれないことばかりをする人間たちをノアの洪水の時のように滅ぼしてしまうのも一つの方法です。わたしたちは怒りに任せてせっかちに行動してしまいます。しかし、神は「忍耐」をされました。忍耐する期間を設けられます。ためらってグズグズしておられたのではありません。神は永遠の昔から、罪人が裁かれ、滅びる以上のこと、単なる忍耐以上のものを備えておられました。罪人の罪が赦され、救われ、神との正しい関係の中に移し入れられる道です。神はその怒りよりも大きくいらっしゃいます。神の忍耐と愛とは、怒りよりも一層豊かで、強力なのです。このような義の現し方かたは、わたしたちの考えに及びもつきません。「怒りと忍耐」、「審判と憐れみ」とが一つの業に纏められて、わたしたちに示されます。その業とは主イエス・キリストの十字架の死とお甦りに他なりません。わたしたちを救おうとしてご自分の義をこのように貫かれるのは、ありがたいことではありませんか。

2012年7月22日 日曜礼拝(動画)

2012年7月22日

2012年7月22日 日曜礼拝(音声)

2012年7月22日

2012年7月22日 礼拝説教要旨 

2012年7月22日

「満足することを学ぶ」

フィリピの信徒への手紙 第4章11-13節

政所邦明牧師

主題聖句:「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」

フィリピの信徒への手紙4章13節

 「すべてが可能です」のところは口語訳聖書では「何事でもすることができる」でした。随分豪胆というか「偉そう」にも聞こえます。パウロは自分が万能だと言っているのでしょうか。そうではありません。「わたしを強めてくださる方のお陰で」と言っているのです。強めてくださるお方は主イエス・キリストしかおられません。「…のお陰で」は意訳しています。しかしそのまま訳せば「…くださる方において」です。パウロがこれまで何度も繰り返してきた「主において」と同じ内容です。―自分の力でできるはずがないじゃないか、主イエスの力こそが全能であり、この私を捉え、強くしてくださる。― キリストのお力に全幅の信頼を寄せているからこそ、このように言えるのです。

 主イエスの力はどこに現れるのでしょうか。パウロが置かれている境遇(11節)、いついかなる場合(12節)においてです。私たちを取り巻く状況は、絶えず変化します。貧しい時、豊かな時、満腹、空腹、物が有り余っているとき、欠乏しているとき、それらが寄せては返す波のように、襲ってきます。貧しければ僻み、物があり余れば傲慢になり、富に溺れることもないとは言えません。神の豊かさに与り、満たされるのでなければ、本当の満足を持つことはできないのです。パウロは「その秘訣を授かった」といいます。主イエス・キリストに出会ったのです。秘訣は特別の人だけが教えて貰えるのではなく「あなたにも与えられる。キリストを信じさえすれば誰でも!」と私たちに保証してくれるのです。

2012年7月15日 日曜礼拝(音声)

2012年7月15日

2012年7月15日 日曜礼拝(動画)

2012年7月15日

2012年7月15日 礼拝説教要旨 

2012年7月15日

「いつも用意して」

フィリピの信徒への手紙 4章10節

政所邦明牧師

主題聖句:「今まで思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。」

フィリピの信徒への手紙4章10節

 この手紙の第2章にエパフロディトという人がフィリピの教会から来たと記されています。おそらく贈り物を携えてやってきたのでしょう。その御礼をしたためるのが、この手紙執筆の第一の動機だったと思われます。「わたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは非常に喜びました。」とパウロは書いています。「ついにまた」とありますから、しばらく物をやり取りする関係が途絶えていたのでしょうか。冬枯れの草木が、春になると芽吹き、花を咲かせえるように、パウロへの愛が再び花開いたと言うのです。「表してくれた」を「花を咲かせる」と訳している人がいます。(岩隈直) 人間の愛にはしばしば失望させられます。移ろいやすく、当てにはならないからです。花開いたかと思えば、しぼんでしまい、そして枯れる。「フィリピの教会の人々の心は、どうせまた変わる」とパウロ先生は冷ややかに見ていなかったのでしょうか。しかし、人の愛を直接見るのではなく、フィリピの教会の人々に働きかけておられる神の愛をパウロは信じておりました。「主にあって非常に喜んでいる」と申します。神の愛は裏切ることはありません。また主イエス・キリストのご愛を信じているからこそ、限界はあってもキリストの愛に促される人の愛を信じることができたのです。それまで、厚意を贈り物に託してパウロのもとに届けたいという願いはフィリピの人々にもありました。ただ機が熟していなかっただけです。送るのにもっともふさわしい時を備えてくださるのも神なのです。

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