2012年9月30日 盗んではならない(本日の説教とは別の内容です)

「盗んではならない」

政所 邦明牧師

(今回読み切り:本日の説教と別の内容です。)

「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」  

                                エフェソの信徒への手紙4章28節

 わたしたちの教会学校(嬰児科・幼児小学中学科・成人科)では「成長」という教案誌のカリキュラムに添って毎週の学びを続けています。ここ4週間は十戒でした。「盗んではならない」は第8番目の戒めです。「殺すな」「盗むな」などの掟はことさら聖書から教えられなくても、わかりきったことのように思います。古代のイスラエルの国のみならず、どこの国にもありそうです。おおよそ人と人とが共に生きてゆく時、怒りにまかせて人を殺したり、欲しくなって盗んだりしたのでは共同社会が成り立ちません。そこでお互い同士の暗黙の了解・約束事として、自然発生的に、このような規制ができたと考えることもできます。

しかし、聖書ではこれらの戒めは神の断言的な命令として与えられます。所有はひとりひとりに神がお与えになったもので、その領分や境を神がお決めになっているという信仰があるからです。与えると言ってもそれは「貸し与えられたり、任されたりするものにすぎず、根底には「すべては神のもの」と言う信仰があるのです。「盗み」は神のものを奪うことを意味します。

暴力による強奪、法スレスレのところ相手を巧みに騙し、かすめ取ることだけを禁止しているのではありません。勤勉に働き、自活を勧めるだけではなく、上記のパウロの勧めのように「困っている人々に分け与える」ために働くことを求める愛の戒めなのです。随分と広がりを持つ神の命令です。

2012年9月23日 礼拝説教要旨

 アーメン

 

政所邦明牧師

 

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

 

主題聖句:「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、  

アーメン。」        

フィリピの信徒への手紙 第4章20節

         

 信仰をお持ちでない方も「アーメン」という言葉はおそらく聞かれたことがあると思います。わたしたちがキリスト者と分かると「あなたはアーメンか?」と聞かれます。そして、その人は胸の前で十字を切る真似をします。しかし、キリスト教の代名詞のように使われるこの「アーメン」は本当の意味をよく理解されていないのではないでしょうか。同じ宗教団体に属する者同士が、互いの気分を盛り上げるために使う“合言葉”と誤解されているなら、まことに残念なことです。

「アーメン」はもともと「本当です」とか「真実です」とかの意味です。祈りの最後に付けて、「真心からそのように信じ、同意する」気持ちを表します。しかし、それ以外に「アーメンである方、誠実で真実な証人…」(ヨハネの黙示録第3章14節)のように形容詞としての用い方もあります。アーメンである方とはイエス・キリストで、この御方こそご真実で、すべての人からほめたたえられるお方だと言うのです。「アーメン、ハレルヤ」と並べられる場合もあります。「ハレルヤ」と言うのが「神がほめたたえられますように!」という意味ですから、「アーメン」も同様に神を称える心を持って「そのとおり、みんなから讃美を受けられますように」との思いが込められます。イエス・キリストこそ真実なお方です。神は罪深い人間を救うために神の独り子を十字架におつけになる方法を取られました。そのなさりかたに、御子は心から「アーメン」と言って同意され、従われました。このようなご真実の故にキリストこそ「アーメン」、誠に信頼出来るお方なのです。

2012年9月16日 礼拝説教要旨

「 見えないものに目を注ぎ 」

 

政所邦明 牧師

コリントの信徒への手紙二 第4章16-18節

 

主題聖句:「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」

コリントの信徒への手紙二 第4章19節 

        

 今日は主のもとに召された方々の写真を会堂に飾り、礼拝をしております。お一人お一人の人生を思い起こすと懐かしさがこみ上げて参ります。おそらく艱難の多いご生涯だったとはずです。しかし、信仰をお持ちだったので、その重荷に押しつぶされることなく、“ひとときの軽い艱難”と言うことができました。そもそも“軽い”とか“重い”とかは比較の問題で、「この地上で一生受ける艱難の重さは神の御前に立たせられる栄光に比べれば、遥かに軽い。」とパウロは言っています。苦闘している本人にとっては必死なので聞きようによっては腹が立ちます。しかし、「苦労してはいるがそれは大したことはないでしょう。我慢しなさい。」と無責任に気休めを言っているわけではありません。 ―神から必ず誉れをいただける。その栄光はどれほど価値があり、栄光に富んだものであるか― と語っているのです。

この重みのある永遠の神の栄光は目に見えません。信仰の目をもってしか、理解できないことです。今日、信仰の諸先輩方を偲ぶとき、キリストのためになぜ耐えて生きることができたか、重いのに軽いと感じられたか その秘密が分かるような気がいたします。これらの方々は「見えるものにではなく、見えないものに目を注がれ」たのです。 ―この地上で見えるものには限界がある。やがて消えてなくなることを知っておられた― だから見えるものにしがみつくことも、根拠にすることもされませんでした。永遠に存続する神の栄光だけを見つめて生きて来られたのです。