2012年12月30日 礼拝説教要旨

「 シメオンの歌 」

 

政所邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第2章22-35節

 

主題聖句:「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」           

ルカによる福音書 第2章39節

                 

主イエス・キリストがお生まれになって40日目のことです。生まれた長男を神にささげるためにマリアとヨセフとは幼子をエルサレムの神殿に連れてゆきます。「当時の慣習に従っただけだ」と言えばそれまでです。しかし、初子は本来神のもので、「この子をあなたのご自由に使ってください」と神に申し上げたのです。これはイエス・キリストの場合は特別な意味を持ちました。神殿に連れてゆくとは、すべての人の罪を償う“いけにえ”として 神に献げることを意味します。実際には30年後の十字架において実現します。しかし、マリアとヨセフとはその事がどれだけわかって神殿詣をしたのでしょうか。おそらく十分には理解できていなかったはずです。

この赤ちゃんの行く末、担うべき使命を鋭く見抜いている人がいました。シメオンです。神の遣わされるキリスト(救い主)にお目にかかるまではけっして死なない。必ず生きている間に、救い主にお目にかかれるとの示し(お告げ)を受けておりました。シメオンは“霊”に導かれて 神殿に入ってきました。神の“霊”が初めから終わりまでシメオンと救い主イエス・キリストとの出会いを導きます。シメオンは“霊”によってこの赤ちゃんの先の先まで見せていただいたのでしょう。母マリアは将来悲しみのため、胸が張り裂けそうになる経験をすることになります。自分の醜さも含めた全人類の罪をこの赤子は担って救ってくださるとシメオンは見抜くことができたのでしょう。だからこそ、「キリストに出会った今こそ安らかに死ぬことができる」と言いました。その感謝を讃美歌にし、神をほめたたえたのです。

2012年12月23日 クリスマス礼拝黙想(本日の説教とは関係ありません) 

政所邦明牧師

 

主題聖句:「民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを不思議に思っていた。」    

ルカによる福音書  第1章21節

何千人もいる祭司の中から、神殿で香を焚く務めにザカリアはクジで当たりました。一生に一度あるかないかの貴重なチャンスです。緊張して、落ち度なく儀式を執り行おうとして必死だったことでしょう。しかしうっかりすると、一連の儀式を滞りなくこなすことばかりに気を取られて、神ご自身を見失う過ちに陥る事だって起こりえます。

そのような人間の業を中断させ、神殿の中で、ザカリアに神が現れてくださったのです。神殿は一番神に会えそうな場所です。そもそも香を焚いて礼拝を捧げるのは神と出会うためではないのでしょうか。ところが実際に神が現れてくださると、ザカリアは信じられません。おかしなことです。

神の業は人間の儀式の手順の中に押し込められるものではありません。人間の思いとは異なります。神がはじめからご計画になり、ここぞと言う決定的なときにご自分の判断で介入してこられるのです。人間にとっては驚き怪しむ出来事です。しかし、受け入れる以外にはありません。

時が来れば必ず実現するはずの神の言葉を信じなかったために、ザカリアは息子ヨハネの誕生まで言葉を失います。その間不自由を強いられる一方で、神がお語りになった言葉を何度も何度も心の中で繰り返す貴重な時間ともなりました。この時間があったからこそ、定めの時間が過ぎたとき、舌がほどけ、讃美の言葉が口をついて出てきたのです。

2012年12月16日 礼拝説教要旨

 

2012年12月16日 礼拝説教要旨

 

「 イエスの母、兄弟 」

 

政所 邦明牧師

 

マルコによる福音書 第3章31-35節

 

主題聖句「:「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」

              マルコによる福音書 第3章35節 

                

天使ガブリエルが「神の子」と呼ばれるほどの方を聖霊によって身ごもらせるとマリアに告げます。最初は戸惑い、恐れをいだいていたマリアも、天使と対話するうちに次第に心が解けてゆき、最後には「お言葉どおり、この身になりますように。」とすべてを明け渡します。「御心のままにこのわたしを用いてください。」とマリアは献身の姿勢を取ったのです。

「お言葉どおり」とはあなたの御心、お考えのとおりにということでしょう。受胎告知を受けたマリアは「神の御心」を行おうといたしました。

30年の歳月が流れます。父親のヨセフはすでに亡くなっており、主イエスは一家の長男として家計を支え、その責任を果たしていたのでしょう。その大黒柱が突然、家を飛び出し、旅回りの説教者となってしまったのです。気が変になってしまったのではないかと家族が心配するのは理解できます。滞在先まで、母マリアと肉親の弟たちとが訪ねて来ました。受胎の時に聞いたお告げをマリアは忘れたのでしょうか。神が最適と思われる時、満を持して、主イエスは宣教活動に入られました。神の御心からすれば当然起こるべくして起こったと言っても良いでしょう。

「神の御心を行う人こそ、…わたしの母」と主イエスから言われたマリアはどのような思いだったのでしょうか。身勝手な親不孝を正当化する言葉としてではなく、30年前の初々しい献身を思い起こさせる言葉として聞いたのではないかと思います。このようにマリアは神から挑戦を受けます。そして、主イエスを十字架へと献げる再献身へと導かれていったのです。

2012年12月9日 礼拝説教要旨

「 12弟子の選び 」

 

政所邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章31-35節

 

主題聖句:「イエスが…これと思う人を呼び寄せ…12人を任命し、使徒と名付けられた。…また、派遣して宣教させ…」

     マルコによる福音書 第3章13,14節                 

クリスマスの季節になり、この時期によく読まれる箇所を読み返しております。東の国の占星術の学者たちは幼子イエス・キリストのおられる場所の上に止まった星を見て喜びに満ち溢れます。元のことばを日本語にそのまま置き換えますと「甚だしい大きな喜びを喜んだ」となります。筆舌に尽くしがたい喜びを経験しました。

一方天使のお告げにより救い主の誕生を知らされた羊飼いたちは飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てます。そしてその光景を見て幼子について天使が話してくれたことを人々に語り始めます。羊飼いたちが“喜んで”と聖書には書いてはありません。しかし、この人たちを突き動かしたのは占星術の学者たちと同じように“喜び”であったのでしょう。ただ羊飼たちが「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」とだけルカ福音書は表現します。おそらく人に語り伝える原動力は“喜び”に違いないのです。

主イエス・キリストが12人の弟子を選び、宣教に遣わされました。12人が一念発起して自主的にというのではありません。送り出されたのです。最近「背中を押す」という表現を耳にするようになりました。突き出すのではなく、そっと押すのです。占星術の学者たちも、羊飼いたちも、喜びに満たされ、他の人に語らずにはおれなかったのだろうと思います。救い主キリストに出逢ったからです。12弟子に先立つこと30年、喜びに押し出されて羊飼いたちは、キリストの救いを語る最初の宣教者となったのです。