2014年1月26日 礼拝説教要旨

「福音の宣教」

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第52章7-10節

マルコによる福音書 第1章14-15節

 

主題聖句:「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 マルコによる福音書第1章15節 

悔い改め”とはいったい何でしょう? 心を入れ替えて少しでも“真っ当な人間”になることでしょうか。努力すれば、少しは親切で真面目な人間になれるかも知れません。「悔い改め」とは「心の回れ右をすることだ」と説教する時、わたしはよく申しました。しかし、何から何へ方向転換するのか十分に説いていなかったと反省しています。人間が「大切である」と普通考えるものから、“別のもの”に信頼する対象を替えること、あるいは移すことです。“別のもの”とはいったい何でしょうか?それは福音です。人間にとって一番大切なものだと神が思われて、差し出して下さった救いなのです。この救いを与えるために、ガリラヤで宣教を始められた時からイエス・キリストは十字架を目指し、十字架に向かって進み始められました。

人間にとって価値があるものとはいったい何でしょうか?お金や財産、健康、助けてくれる家族や友人など、いろいろと挙げることができます。その他にもいくつもあるでしょう。その中の例えば、健康を考えるとします。健康は大事です。神の与えて下さった体のために最大限の努力をすることをだれも反対しません。しかし、人間にとって、どんなに価値があると思われていても、罪からの救いよりも大切なもの…救いに代わるものが他にあるでしょうか?健康は大切であっても救いにはなりません。人間が“価値あり”とするものが大事でないとは申しておりません。福音よりどちらが大事かと問うているのです。その福音に目を注ぎ、体も心も、自分のすべての向きを福音へとかえる時、私たちの生活が安定します。それが“悔い改め”なのです。

2014年1月19日 礼拝説教要旨

試みを受けられる主イエス

 

政所 邦明牧師

 

詩編 第91編1-16節

マルコによる福音書 第1章12-13節

 

主題聖句:「…サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」      

 マルコによる福音書第1章13節 

洗礼を受けられ、聖霊が鳩のように主に降られた後に、その聖霊は主イエスを荒野に送り出されます。「送り出す」は「外に投げ出す」、つまり「叩き出した」くらいの強い意味を含むことばです。聖霊はひどい“仕打ち”を主にされたのでしょうか?

 

信仰生活を送る時、身の回りに困難な出来事が起こってきます。たとえそれを神が望んでおられるとわかったとしても、必ずしも好ましいと思いません。おそらく私たちが自己中心で、神の深い配慮を理解できないからです。遭遇する困難は試練とも言えます。その試練の中に神がわたしたちを押し出されます。主イエスは公の生涯に入られる前に、わたしたちに先駆けて試練を受けてくださいました。その事自体、慰めではないでしょうか。「罪は犯されなかったが、あらゆる点で、わたしたちと同様に試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙第4章15節)とある通りです。

 

荒野には“野獣”がいます。うっかりすれば、野獣に命を奪い取られるかも知れません。緊張を強いられます。人と擦れ合い、疲れを感じる私たちの日常生活とあまり変わりません。その中を主イエスは通られます。その時に天使も主に仕えていました。「聖霊が荒れ野に放り出した」と聞くと、ひどいことをなさると思います。しかし、「わたしの愛する子」と呼びかけられる父はその言葉を裏切り、放り出しておしまいにはなりません。…“野獣”が主と一緒にいても天使も又、いる。…試練と同時に守りも与えられる神のご真実を、この荒野の誘惑からわたしたちは知ることができるのです。

2014年1月12日 礼拝説教要旨

主の僕・イエスの召命

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第42章1-11節

マルコによる福音書 第1章9節

 

主題聖句:「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」          

マルコによる福音書第1章11節

わたしたちに不可解と思えることがしばしば聖書に記述してあります。主イエスが洗礼をお受けになったということもそのひとつです。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まりました。主イエスが神の子であり、メシア(救い主)であることを喜んで伝えるのが、この福音書の目的です。神の子に罪があるはずはありません。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」をバプテスマのヨハネは宣べ伝えていたのです。それなら、罪のない神の子がどうして洗礼を受ける必要があったのでしょうか。何か心にやましいことでもあったのでしょうか。そのようなことがあるはずはありません。それなのになぜ主イエスは自ら進んで洗礼をお受けになったのか?冒頭で人間の理解の及ばないことが聖書に書いてあると申し上げたのはこのような点です。

 

おそらく人間の計画というより神がお決めになり、神が主イエス・キリストに促されたのだと思います。しかも、父なる神と御子キリストとの思いがピッタリひとつになりました。第11節の『わたしの心に適う者』というのはイザヤ書第42章1節からの引用です。「主の僕の歌」と呼ばれるもののひとつです。神が歓迎される僕(神に仕える人)とは力ずくで相手をねじ伏せ、脅して自分の言うことを聞かせる支配者ではありません。罪人を救うために、ご自分は受ける必要のない洗礼をわざわざ受けてくださる「神の僕」です。そのような救い主のあり方を父なる神は承認してくださいました。「わたしの心に適う者」との天からの声は、父なる神の承認の証なのです。

2014年1月5日 礼拝説教要旨

イエス・キリストの福音の初め

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第40章1-11節

マルコによる福音書 第1章1-8節

 

主題聖句:「わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」            

マルコによる福音書第1章8節

                                    

第1章1節の「神の子イエス・キリストの福音の初め」はこの福音書全体の核心を短い言葉できちっと表現していると思います。「ナザレのイエスが神の子であり、救い主でいらっしゃる。この御方の十字架と復活とによって人々に救いがもたらされる。その救いが喜びの知らせである。その喜びのニュースをこの福音書で書いた」とマルコは言っているかのようです。福音書全体の内容が、一行にも満たない第1節の文節に込められているのです。

 

1章2節~8節にはイエス・キリストの道備えをするバプテスマのヨハネのことが書いてあります。この部分には、主イエスは直接、登場しておられません。イエス・キリストがおいでになる前の話ですね。するとここは“神の子イエス・キリストの福音”と関係のない部分なのでしょうか。そんなことはありません。この部分もバプテスマのヨハネが行う洗礼の行為や言葉によって“神の子イエス・キリストの福音”が証しされているのです。

 

「自分は屈んでこの方の靴の紐を解く値打ちもない」とヨハネは申します。…“人々に罪の赦しを与えるための水による洗礼をわたしは授けている。しかし、水による洗礼は罪の赦しを完全に与えるものではない。主のなさる聖霊による洗礼の準備段階に過ぎないのだ。”…自分のなすべき務めと役割とをヨハネは自覚しておりました。水による洗礼は、聖霊による洗礼の予備的なものに過ぎません。キリストの十字架による救いがあって始めて「罪の赦しを得させる悔い改めの水のバプテスマ」に実質が伴います。罪が赦されるためには、キリストのみ業と聖霊のお働きとが、どうしても必要なのです。