2014年2月23日 礼拝説教要旨

おびえるな

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第16章14-23節

ヨハネによる福音書 第14章25-27節

 

中心聖句:「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルの心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた。」

(サムエル記上 第16章23節) 

                                   

「自分の蒔いたことは自分で刈り取らねばならない」と聖書にあります。サウルは自分の利得に走ったために、王位から滑り落ちることになります。今しばらくは王として振る舞うでしょうが、後は時間の問題です。神の前にはすでに決着がついてしまいました。

「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった。」…サウルの惨めな有り様がそのように表現されています。王位を失う悔しさ、失いたくないと執着する心がサウルを苦しめたのでしょう。

「悪霊を神が送られるはずはない」と常識的にわたしたちは考えます。その意味はおそらくこうでしょう。サウルは自分の犯した罪の報いを骨身に染みて味わっています。神はそれをお許しになるのです。苦しみを通して、罪を認め、赦しを神に求めるようになるかもしれません。苦悩は悔い改めの契機にもなります。悔い改めるかどうかは、サウルにかかっているのです。

旧約聖書のヨブ記にはサタンがヨブを“ふるいにかける”ことを神が許された(第1章12節)とあります。攻撃に曝されても、悪霊もまた神のご支配のうちにあります。苦しみの時も決して神はお見捨てになりません。

サウルのもとにダビデが連れて来られます。ダビデは優れた賛美歌作者です。ダビデの作と言われるものが詩編にたくさん収められています。悪霊に襲われるとき、ダビデの詩がサウルの心を神に向かわせます。悪霊は神に決して勝てません。そのことをダビデの賛美歌はサウルに教えたのです。

 

2014年2月16日 礼拝説教要旨

神の選び

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記上 第16章1-13節

使徒言行録 第10章24-43節

 

主題聖句:「いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。…」

サムエル記上 第16章3節     

「神ご自身が“神の民イスラエル”を王として支配なさる」…これがイスラエル民族の原則です。サムソンやギデオンなど“士師”の活躍する時代もありました。しかし、外国の侵攻から身を守り、国内の安定を維持するため、“王制”を導入するように民は、サムエルに迫ります。民の要求に応える形で“王制”が敷かれたように見えます。しかし、民の願いを神が許可されたというより、神が王を立てることを望まれたのです。(サムエル記上8:9)

 

初代のサウル王は神に捨てられます。神を畏れず、職権を乱用し、私腹を肥やしたからです。次の王を準備させるために、神はサムエルをエッサイのもとに遣わされます。いけにえをささげて、礼拝をするためです。

王サウルは、位にしがみつこうとしています。サムエルの動きに目を光らせます。「いけにえをささげる」はサウルを欺く単なる口実、見せかけでしょうか。そうではありません。神によって王は立てられるのです。礼拝の場こそ、王がその職に任命されるのにふさわしいのではないでしょうか。

 

支配者となることは重い責任が生じます。どれほど優れた能力を持つ人であっても、全身全霊を傾けて責務が果たせるかどうかでしょう。王の仕事をやすやすとこなせる人などだれもいません。犠牲を伴うのです。

 

「礼拝」とは「わたしたちのからだを神にささげること」です(ローマ書12:1)王の役得で甘い汁を吸うどころか、神の支配をもたらすために苦労の連続を、少年ダビデは送ることになります。礼拝から送り出されて、神のために用いられることを、この少年は次第に学び取ってゆくのです。

2014年2月9日 礼拝説教要旨

人間ダビデ

 

政所 邦明 牧師

 

ルツ記 第4章13-22節

マタイによる福音書 第1章1-17節

 

主題聖句:「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、…エッサイはダビデ王をもうけた。」

マタイによる福音書 第1章1、2、6節 

                                   

今から3000年前にベツレヘムに生まれたダビデは、羊飼いの少年からイスラエルの王になった人です。その名は旧約聖書では800回ほど、また新約聖書でも60回も出てきます。「聖書(旧約)はご自分について証言をする書物だ」とイエス・キリストは言われました。旧約聖書のみならず新約聖書も、もちろんそうです。[ヨハネ福音書5:39]イエス・キリストを知るために信仰者は聖書を読みます。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちから甦ったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である」[テモテへの第二の手紙2:8 口語訳]ですから、キリストを知り、信じるためにはダビデを知るのがとても大事なのです。

 

ダビデは多様な面を持った人物です。王になるまではもちろんのこと、王になってからも“凄まじい、戦(いくさ)”を内外の敵と繰り広げます。それだけでなく、心の内では自らの罪と“のた打ち回るように”戦いました。そして苦悶の果てに、神に立ち返るのです。その姿から信仰を教えられます。

 

詩編にはダビデの作とされるものが数多く残っています。豊かな文学性を備えた作品です。しかも、すべてに信仰が満ち溢れています。神に訴え、嘆き、祈ることをダビデは知っていました。祈りのうちに罪を悔い改め、神のもとにこそ赦しのあることを、わからせていただいたのです。神に愛された罪人、神を信じて、従ってゆこうとする姿を人間ダビデの中にみます。①ダビデを知ることはイエス・キリストを知ること、さらに ②信仰生活を知ることに通じていると思います。それゆえに、ダビデの生涯を学びたいのです。

2014年2月2日 礼拝説教要旨

召命に応えて立つ時

 

政所 邦明牧師

 

イザヤ書 第55章6-13節

マルコによる福音書 第1章16-20節

主題聖句:「イエスは『わたしについて来なさい。…』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」

マルコによる福音書第1章17、18節

ガリラヤ湖の岸辺において、ふたりの漁師シモンとアンデレとに「わたしについて来なさい」と主イエスは声をかけられます。二人は“すぐに”従いました。“すぐに”ということから「信仰とは何か」を考えさせられます。

 

“すぐに”とは二人には何の準備もなかったということでしょう。主イエスの後に従っていく時、仕事着のままで、まだ足は濡れ、雫が垂れていたかもしれません。何も持たないのです。まじめに働いてきた経験も誇りも知識も、主イエスが人間の救いのために準備なさったことに比べれば、何も役に立たちません。持っているものをかなぐり捨て、ただひたすらに主イエスの後にくっついてゆく、それが信仰なのです。

 

神の子と呼ばれるにふさわしく内実が整い、合格点が出せるようになったら、信仰を持ったことになると考える人は多いでしょう。こちらの教会では初めて来た人にいきなり洗礼を勧めることはありません。受洗準備の期間のあることは確かです。しかし、時間の長さの問題でしょうか?長く通っておられても決心がつかないと言われる方もおられます。「自分のような未熟な者が信者になれば、神様にも、教会にも申し訳なくて…」とお考えになるようです。それではどの基準に達すれば「もう十分準備ができた」と言えるのでしょうか。いつまで待っても同じことではありませんか。“信仰の本質”は極めて単純明快です。「ついて来なさい」と命じられる主のお言葉に“すぐに”従うことだけなのです。こちら側に呼びかけていただく値打ちも資格もありません。呼びかけてくださる主にすべてがかかっているのです。