2014年4月27日 礼拝説教要旨

神の家をたてる

 

政所 邦明 牧師

 

サムエル記下 第7章18-27節

使徒言行録 第17章22-28節

 

主題聖句:「…あなたの王国はあなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに固く据えられる。」      

サムエル記下 第7章16節

                                    

度重なる戦いの果てに30歳になったダビデはやっと全国統一を果たします。サウル王に追いかけられる心配はなくなり、やっと落ちついて自分の家に住むようになりました。ある時ふと気が付きました。自分はレバノン杉の家に住んでいる。それなのに神の箱が安置されているのはまだテントの中だ。自分をこれまでの地位に押し上げて下さった神に対して、ダビデは感謝の気持ちでいっぱいでした。自分に比べ、神の箱が置かれている場所はみすぼらしく、このままでは神様に対してあまりにも失礼で、申し訳ないと思ったのでしょう。神殿建設の思いが心に浮かんだようです。

 

ダビデが悪いことを思いついたと私は思いません。神に感謝を表したかったのでしょう。住む家を神から自分はいただいている。それ故に神にも家を造って献上するのが良いだろうと考えたのです。そんなに間違っているとは言えないでしょう。それでも神の恵みがダビデには、徹底してはわかっていなかったのです。神の恵みに対し、人間は物でお返しができるでしょうか。それこそ人間と神とを同じ水準におくことではないでしょうか?こんなに失礼な話はありません。恵みに応える道を深く知る必要がありました。

 

「神の箱を置く建物を建ててくれ」などと神は一度もおっしゃったことはないのです。人間がお返しを何もしなくて良いということではありません。どんなことをしたって、神の恵みに応えるには足りないでしょう。救っていただけるのであれば、むしろ、無条件で自分を神に明け渡し、神の救いの恵みを感謝して受け入れる信仰の道以外に何があるというのでしょうか?

 

 

2014年4月20日 礼拝説教要旨 

「 すべての民を弟子として 」

 

ダニエル書 第7章13、14節

マタイによる福音書 第28章16-20節

 

政所 邦明 牧師

 

中心聖句:「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」   

マタイによる福音書 第28章18、19節

                                    

人間にとって恐ろしいのは死です。体が腐敗して元の形が無くなってしまうから怖いのでしょうか?いや死が神から見捨てられる滅びになるのがほんとうは怖いのです。罪があるから人間は死んでも滅びを免れません。死の恐怖のため一生涯奴隷となっている人間を解放するためにキリストは甦られました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と主イエスは言われました。神の前で滅びてしまうのをキリストは打ち破られたのです。これ以上の権能があるでしょうか。一切のものを含む権能です。その権能によって罪の赦しを与えてくださいます。

一切の権能を父なる神からキリストは与えらます。「だから」11人の弟子たちを宣教にお遣わしになりました。罪を赦して人を救うことがおできになれないのに、どうして確信を持って、弟子たちを送り出されるでしょうか。そんな無責任なことをなさるはずはありません。「大丈夫、安心しなさい、わたしが保証するから…」と弟子たちの背中を押されるのです。

「すべての民を弟子にせよ」と命令されました。「この人は素直に信じそうだ。あの人は難しいかも知れない」とわたしたちは勝手に判断して、選り好みをしてしまいます。福音を伝えるのに容易な相手など一人もいません。「『すべての民に』と一切の権威を与えられたお方には勝算がおありなのだ」と信じるだけです。宣教の根拠は主イエスの復活された権能にあるのです。

 

 

2014年4月13日 礼拝説教要旨

ダビデの子にホサナ

 

政所 邦明 牧師

 

イザヤ書 第53章1-12節

マタイによる福音書 第20章29節-第21章11節

 

主題聖句:「「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に…」   

マタイによる福音書 第21章9節

                                    

受難節を過ごしながら、主イエスが十字架に向かって進んでいかれるお姿を思い浮かべています。「ダビデの子孫として生まれ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」(テモテへの第二の手紙 第2章8節 口語訳)とパウロ先生は言われました。救いの良き知らせを心の中に深く受け止めようとすれば、イエス・キリストのことをいつも“思い巡らして”いなければなりません。受難節に限らず、四六時中黙想することを求められています。しかし、とりわけこの季節に、主の十字架に思いを集中するのです。

先週の箇所では、エブス人の住んでいたエルサレムの町をダビデが占領しました。それは神がエルサレムを支配され、全世界の王となられたことを意味すると申し上げました。神が王の位にお付きになったのです。

 

過越しの祭りの時、エルサレムの町に主イエスはロバに乗って入られました。ロバは“柔和な”動物の象徴です。“柔和な王”をお乗せするのにふさわしい動物と言えるでしょう。神が王として、エルサレムにおいでになります。十字架によって人間の罪を償い、罪から救って下さるためです。ロバの姿はイエス・キリストのお姿と重なります。罪の重荷を担うために神の御心に従って下さる “苦難の僕”としてのお姿がよく現れています。「ダビデの子にホサナ」とは「ダビデの子よ、救ってください」と呼びかけることです。真の王であり、救い主を迎えるふさわしい呼びかけと言えるでしょう。そのようなお方が今日わたしたちのところへ来てくださるのです。