2014年5月25日 礼拝説教要旨

神の前に頭を垂れよ

政所 邦明牧師

サムエル記下 第13章20-39節 コロサイ人への手紙 第3章18-25節

主題聖句:「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」

サムエル記下第13章39節

イエス・キリストの祖先になぜダビデが選ばれたのでしょうか。サムエル記の下巻に入って、罪を犯すひとりの弱い人間の姿をダビデの中に見てきました。確かに優れた信仰者にダビデは違いありません。しかし、揺るがない信仰にしっかり立つというより、弱さために失敗し、醜さの中を“のたうちまわる”のです。そして罪に悩みながらも、神に憐れみを乞い、赦しを願います。そのようなところはどの信仰者にも共通なのではないでしょうか。

イエス・キリストとダビデが違う点があります。主イエスは罪を侵されませんでした。しかし、その他はわたしたち人間と全く同じで、わたしたちの弱さに、この方は同情できない方ではありません。   サウルから妬まれて苦しみ、姦淫を犯し、人を殺して自分の罪を隠そうとしました。その結果、生まれた赤ちゃんを亡くす悲しみもダビデは経験するのです。そのような人間の子孫にキリストがなってくださる事自体慰めではないでしょうか。キリストは罪が代々受け継がれるような系譜(系図)の中に入ってくださったのです。それは次の御言葉の実現です。「罪と何のかかわりあいもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」(Ⅱコリント5:20)わたしたちの弱さを知ってくださる方が、同情して下さるだけでなく十字架にかかって身代わりに死んでくださったのです。   敵対する者から妬まれる。自分の罪の弱さ、親としての悲しみを持つ。それは、だれでも経験しそうです。これらの中で苦闘したからこそ、わたしたち人間は救いを求めてイエス・キリストに近づくのではないでしょうか。

2014年5月18日 礼拝説教要旨

苦闘としての祈り

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記下 第13章20-39節

コロサイの信徒への手紙 第3章18-25節

 

主題聖句:「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した」          

サムエル記下第12章20節 

                                   

ナタンを遣わし、ダビデの罪を神は暴かれ、責められます。するとダビデは神の前に崩折れ、悔い改めました。「主があなたの罪を取り除かれる」とナタンは宣言します。しかし、神の裁定はまことに厳しいものでした。ダビデ自身は死を免れるものの、「バト・シェバと関係してできた子供は死ぬ」とナタンから告げられます。そして、子供は次第に弱ってゆくのです。

 

「罪は取り除かれる」と神は言われました。であれば、「子供が元気になっても良さそうだ」と考えるでしょう。それが赦しの一番わかりやすい形のように思えるのです。「子供の癒しは罪の赦しの確証であり、印である」と考えるのは無理もありません。

 

「赦す」と神から宣言されても、“赦されている”とダビデに確信がなければ、“ほんとうに赦された”ことにはならないでしょう。ダビデは断食して必死で祈りました。祈っている間に「姦淫や殺人の過ちを犯すのではなかった」と悔やんだかも知れません。しかし、6日間の祈りにもかかわらず、7日目に子供は死んでしまいます。“赦し”と“癒し”とは別でした。

 

神のなさり方に反発し、くってかかることも、悲嘆にくれ、泣き明かすこともダビデはしませんでした。平然と、もとの生活に戻ったのです。

 

ダビデが求めたのは、神を信頼すること、赦しを確信することでした。その祈りの中で、神のなさる結果を受け入れました。子供の死は悲しみと辛さとをもたらしたに違いありません。しかし、恨みも不平もなかったはずです。祈りの中で、神の裁きを受けとめ、一切を神に任せたのです。

 

2014年5月11日 礼拝説教要旨

神に対する罪

 

政所 邦明牧師

 

サムエル記上 第12章1-15節

ルカによる福音書 第15章11-19節

 

主題聖句:「ナタンはダビデに向かって言った。『その男はあなただ。…なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。…』」  

サムエル記下第12章7,9節

 

ダビデはウリヤの妻を寝とり、そればかりか忠実な部下ウリヤを殺させてしまいます。一つの罪を隠すために、さらに罪を重ねてゆきます。良心の疼き(うずき)を少しも感じることなく、罪を隠し通せるとでも思ったのでしょうか。神は侮られるようなお方ではありません。ダビデが悔い改めるようにナタンをお遣わしになりました。

 

一つの話をナタンは始めます。たくさんの羊を持っている男が来客のもてなしのために自分の羊ではなく、別の貧しい男がだいじに飼っていた一匹の羊を取り上げて、料理した話です。実際にあったのか、つくり話なのか、わかりません。一見ダビデの行なったこととは直接は結びつかないように思えます。 “自分のことを棚に上げ”、ナタンの話の中に出てくる富裕な男の非道な振る舞いにダビデは怒ります。「そんな無慈悲なことをする人間は死罪だ!」と思わず言ってしまいます。「ダビデのことだとわからないように遠回しに」ナタンが話したという面もあるでしょう。しかし、それよりも、だれでも自分の行動には無感覚になり、分らなくなるということでしょう。

 

ダビデの反応に対して「その男こそ、あなただ!」とナタンは切り返します。ダビデは自分の罪を知らなかったのではなく、認めたくなかったのです。しかし、王としての体面にしがみつくことなく「わたしは主に罪を犯した」(第12章13節)と悔い改めました。罪を犯した後の処理とは、言い逃れをすることではなく、罪を素直に認め、神に詫びることなのです。