2014年7月27日 礼拝説教要旨

宣教する力

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章29-39節

 

主題聖句:「イエスがそばに行き、手をとって起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」         

マルコによる福音書 第1章31

                                    

 

「神の国は近づいた」と言って、ガリラヤで主イエスは伝道を開始されました。(第1章15節)神のご支配は始まったのです。主がお声をかけると、まるで磁石に鉄が吸い付けられるように4人の漁師が弟子となり、ついて行きました。神の強い御手がこの人たちを捕まえたと言ってもよいでしょう。

 

カファルナウムの会堂で、安息日に礼拝を献げておられる時のことです。汚れた霊に取り付かれている男が騒ぎ出します。そこで男から汚れた霊を主イエスは追い出されました。その安息日の礼拝の後、シモン・ペトロの家にゆかれ、高熱で苦しむペトロの姑(しゅうとめ)を癒されます。

 

「解熱剤も抗生物質も使わず、主イエスが手を取って起こすだけで、急に熱が引くはずがない。迷信めいた非科学的なことを福音書が報告するものだから、聖書の内容は信じられない!」という人もおられるでしょう。

 

①弟子たちが主イエスの言葉に吸い寄せられる。②汚れた霊を追い出される。③姑の熱がひき、常識では考えられないような驚異的な回復を見せる。…これらはすべて〝神のご支配が始まっている〟ことの目に見える「しるし」なのです。

 

わたしたちは自分たちの小さな経験から“奇跡的なことは絶対に起こらない”と勝手に決めつけています。しかし、これらのしるしは神様が入念に準備し、人間に対して〝よくあれかし!〟と願われたことを証するものです。神のご支配が実現したことを表しています。奇跡でも何でもありません。神さまにとっては当然起こるべくして起こった愛の業、憐れみの業なのです。

2014年7月20日 礼拝説教要旨

汚れた霊をも追い出す権威

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第1章21-28節

 

主題聖句:「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」            

マルコによる福音書 第1章27節 

                                   

 

汚れた霊にとりつかれた人が福音書に登場します。「憑依」(ひょうい)妄想という言葉があります。「悪霊、あるいは動物の霊にのりうつられ、引き回され、支配されていると妄想すること」を言います。昔は異常な行動、また奇行をする人の原因をそのように考えたのでしょう。どこの世界でもあると思います。しかし、心の病なのに、うまく解明ができず“何か得体のしれない力”を持ち出して説明するのは“非科学的”だと避難されます。“もののけ”に支配されるというのはありえない。仮にあったとしても特殊な心霊現象で、自分たちとは関係ないと決めつけるのです。

 

わたしたちは何か一つのものの考え方に取り憑かれて突き動かされ、支配されることはないでしょうか。「競争社会で勝ち残らなければ滅んでしまう。」あるいは「良い学校に入れば将来は保証される」などです。盲信に近い思い込みにさえなります。「その時代に優勢な考え方に巻き込まれ、押し流されていない」と誰が自信をもって言えるでしょうか。“狐に憑かれた”などというとみんな眉をひそめます。ところが、「時代を支配する考え方がその時代に生きる人をとりこにしている」というと、現実味を帯びてきます。

 

バプテスマのヨハネによって主イエスが洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のようにくだられました。「愛する子、心に適う者」と主イエスに対して父なる神は保証を与えられました。(マルコ1:11)その神の力を帯びて、神に逆らう力を滅ぼし、その力に捕らえられている人を解放するために、主イエス・キリストは来られました。福音を携え、ガリラヤの会堂で教えられたのです。

2014年7月13日 礼拝説教要旨

主はわたしの羊飼い

 

政所 邦明 牧師

 

詩編 23編1-6節

ヨハネによる福音書 第10章11-18節

 

主題聖句:「死の陰の谷をゆく時もわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」                

詩篇第23編4

                                    

半年をかけて学んできたダビデは「先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られ…」ます。(列王記上第2章10節) 全国統一をなした王にふさわしく盛大な葬儀が営まれ、そのことが書かれているかと想像しました。ところが、葬りの様子などは一切記されておりません。まことにあっさりしたものです。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている」とダビデは息子ソロモンに言い残しました。死とはダビデにとって①神の手の中に落ちること、②安心して憩うこと、なので、ことさらに騒ぎ立てる必要もなかったのでしょう。葬儀のことを何も書かないというあたり、信仰に生きたダビデらしさを現しているように思います。

 

半年間、慣れ親しんだ信仰の先生ダビデを記念し、偲ぶことにします。例えば、ダビデの作と言われる詩篇第23編に“人となり”と信仰とがよく現れています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」この言葉に尽きるのではないでしょうか。かつては羊飼いの少年で、後には羊飼いの心を持つ“王”として国民という羊たちの群れを養ってゆくようになります。

 

しかし、神の前には今度は一匹の“羊”の立場に立つのです。自分の全生涯を振り返えれば、あらゆる面で“欠乏”を感じることはありませんでした。一歩間違えば、崖を踏み外し奈落の底に落ちても不思議でないところを、紙一重で踏みとどまり、生かされる連続でした。… このように、サムエル記上下のダビデにまつわる場面、場面を思い起こすたびに、「主は羊飼い」と告白するダビデの言葉が真実、胸に迫ってくるのです。

2014年7月6日 礼拝説教要旨

ダビデの死

 

政所 邦明 牧師

 

列王記上 第2章1-12節

ヘブライ人への手紙 第12章10-12節

 

主題聖句:「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。あなたは勇ましく雄々しくあれ。」         

列王記上 第2章2節 

                                   

ダビデは自分の死期が迫っていることを悟っています。この世界に存在する“生きとし生けるもの”が「死すべき限界のあるもの」であることはだれでも認めざるをえません。しかし、自分の死も神の御手の中にあることをダビデは信じていたのです。誰にとっても死が厳しい現実であるのには変わりがありません。しかし、死にゆく自分をはかなんだり、ヤケを起こして、取り乱すようなことはしませんでした。…神のご支配の中で、命を与えられ、王として任命され、その役目が終わったので死んでゆく。…生きるにしても、死んでゆくときにも、“神のもの”にされている。このことにたった一つの慰めをダビデは見出していたのではないでしょうか。

 

「たとえわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」(詩篇第23篇4節:口語訳)のダビデの言葉が響いてきます。死に際してのダビデの気持ちをこれほど端的に表している言葉はないと思います。信仰があるからこそ言えた言葉なのです。

 

神が一方的にお選びになり、ダビデを王としておたてになったのは彼の人生において決定的でした。(サムエル記上第16章12節)さらに「ダビデの子孫によって王座を堅く据え、王国がゆるぎのないものする。(サムエル記下第7章13,14節)」と神はダビデに約束されます。

 

ソロモンに「勇ましく、雄々しくあれ」と励まします。信仰を息子に継いでもらいたいと思いました。一番確かな方にしがみついて離れないように促したのです。神から離れないことこそ、ほんとうの強さの源なのです。