2014年9月28日 礼拝説教要旨

安息日の主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

主題聖句:「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

マルコによる福音書 第3章4

                                    

主イエスの立ち振舞に対して批判的に観察し、口出しをする人々が現れます。ファリサイ派です。主イエスや弟子たちに近づき、「あなたがたの行動は律法に反するのではないか」と質問をしてきます。…①主イエスが徴税人や罪人たちと食事までして交わっておられる②安息日であるのに弟子たちが麦の穂を歩きながら積むのを主イエスは放任しておられる。…これらの行状はファリサイ派の判断基準に照らすと、律法違反に当たります。主イエスの振る舞いは許しがたいのです。特に安息日の掟にこだわっていました。

 

安息日はもともと人に命を与え、恵みを与えて救うために神がお定めになったものです。言葉を変えて言えば、〝人を愛しなさい〟ということでしょう。ファリサイ派の人々は自分たちで作った掟にしがみつくあまり、安息日の根本のところがわからなくなっています。掟そのものが神にでもなっているかのようです。それは、ファリサイ派の人々だけの問題ではなく、わたしたちもまた、簡単に陥る罠のようなものではないでしょうか。

 

冒頭の御言葉は主がファリサイ派の人々にされた質問です。だれが考えても「善いことをし、命を救うこと」に、答えは決まっているように思えます。しかし、ファリサイ派は答えません。いや答えることができないのかもしれません。主イエスが安息日に人を癒やしても良いことになり、自分たちの主張と矛盾するからです。そこまで心が頑なになっていました。主イエスは、彼らの反発を恐れず、掟ではなく神の恵みによって生きるように、片手の萎えた人を癒されました。律法の呪縛から解き放とうとされたのです。

 

2014年9月21日 礼拝説教要旨

魂をあがなう主

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第3章1-6節

 

主題聖句:「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」

 詩編第49編 16節   

                                 

今日は主のみもとに召された方々を記念して礼拝をささげております。「後世への最大遺物」という講演の中で、内村鑑三は〝勇ましく高尚なる生涯〟こそ、後の時代に残すことのできる最高の遺産だと申しました。「この世は悪魔の支配ではなく、神の支配にある」…このことを信じる信仰こそが〝高尚な生涯〟を生み出す…と内村先生は言われます。

 

「自分たちは神のご支配のもとに生かされ、また支配のもとで死に、今もその支配のもとにある」と在天者の方々が語っておられるように感じます。

一度死んでしまうと、巨万の富を築いた人でも、その大金を積んだところで、死んだ自分の命を買い戻すことはできません。これが、詩編第49編が語るところです。その事実に反対する人はだれもいないでしょう。

 

死んだ者のゆく世界を聖書では〝陰府〟(よみ)と言います。そこにいる死人を羊に喩えると〝死〟が羊飼いになるでしょう。その世界では〝死〟がのさばり、死人たちをいつまでも自分のもとに縛り付けておけると豪語しています。〝陰府〟では死が絶対的権力者であるかのように思えるのです。

 

この詩では、私の身も魂もすべて神が救い、〝陰府〟から解放して下さると告白しています。主イエスが甦られる何百年も前に、わたしたちをも活かして下さる復活の力を予め知っているかのようです。死者を〝陰府〟の手から救い出して下さる神の力はキリストの甦りの中にあります。先輩方はその福音を聞き、「自分たちもやがて復活する!」と信じて召されました。その信仰に続くようにと記念礼拝において、私たちを励ましておられるのです。

2014年9月14日 礼拝説教要旨

新しいぶどう酒は新しい革袋に

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第2章18-22節

主題聖句:「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」

マルコによる福音書 第2章19節

多くの宗教において〝断食〟に類する苦行を求められることがあります。「普通以上の真面目な生活をしなければ、救われないし、しっかりした信仰生活を送っていることにはならない」と多くの人が考えます。
わたしたちの教派、教会で、〝断食〟を信者さんに強要することはありません。それは「花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。」と言われた主イエスの言葉に根拠を置いているからでしょう。〝断食〟は救われるための絶対条件にはならないのです。
信仰生活を〝婚宴〟に主は譬えられました。花婿は主イエスさまです。私たちは客として披露宴に招かれています。その宴席に喜びが満ち溢れるのは、ごちそうが並べられ、余興で盛り上がるからではありません。それより花婿と一緒にいることが喜びの源なのです。この主イエスと私たちとの関係を抜きにして、信仰生活を考えることはできません。
〝断食〟など、宗教的に良い行いと考えられるものがあります。苦行、禁欲、修行などがそれに当たります。善行がイエス様との深いつながり作るなら、多いに奨励しなければなりません。しかし、〝断食〟がそのような絆を、果たして作ってくれるでしょうか?
「神の国はきた」といって主イエスは宣教を開始されました。重い皮膚病の人、徴税人、罪人との交わりにも積極的に入っていかれました。これらの人々は主イエスが一緒にいてくださるから嬉しいのです。禁欲の〝断食〟より、祝宴に譬えられる方が、この喜びをよく表しているではありませんか。

2014年9月7日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

「レビの召命」

 

エレミヤ書 第1章4-10節

マルコによる福音書 第2章18-22節

主題聖句:「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」            マルコによる福音書 第2章17節 

                                   

再び主イエスは湖のほとりに出て行かれます。以前、湖のほとりで4人の漁師を最初のお弟子として招かれました。このような場所で主イエスは誰かとの新たな出会いをなさるのでしょうか。4人の漁師はごく普通の善良な労働者です。漁師という職業のゆえに、〝罪人〟と後ろ指をさされ、非難されることはなかったでしょう。4人が弟子とされる時、彼らが神の前にどのようであるか、“清くて汚れのない”人たちであるかどうかは問題にされません。「従って来なさい」と主イエスが声をかけられたから、従っただけです。

 

ところが重い皮膚病の人(マルコ1:40)も徴税人も、その病の性質や職業からして、当時の社会から〝罪人〟だと決めつけられ、蔑まれた人々でした。確かに同胞から血税を搾り取り、外国のローマ帝国に徴税人は上納します。ついでに役得と称して“上前もはね”るのです。だから、この人達がユダヤ社会の〝敵〟または〝仇〟とみなされても仕方がないのかもしれません。ユダヤ人の掟からすれば、徴税人は毛嫌いされるでしょう。しかし、4人の漁師たちやファリサイ派の律法学者に比べて、徴税人は神の前にことさらに罪が深いのでしょうか。そんなはずはありません。神の前には皆等しく罪深いのです。そのような人間すべてを救うために、主イエス・キリストは来てくださいました。「罪人を招くためにきた」と言われます。「自分は良いことをしない代わりに、神に裁かれるほどの悪いこともしない人間だ」と自分のことを思っています。しかし、その私たちに神の前における姿を突きつけ、「そのあなたを救うために来た」と主イエスは言われるのです。