ともし火をかかげよ
政所 邦明 牧師
マルコによる福音書 第4章21-25節
主題聖句:「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。」
マルコによる福音書 第4章21節
「ともし火を持って来るのは…」の、もとの言葉をそのまま日本語に置きかえると「ともし火はやってくるだろうか」(岩波書店訳聖書脚注)となります。この翻訳だと、ともし火がまるで人間みたいです。足が生えてトコトコ歩いてこちらへやってくるかのような印象を与えます。したがって大部分の日本語訳が「ともし火を持って来る」と人間が持ち運んだように訳します。
しかし、主イエスがご自分を「ともし火」に譬えられたと考えると、理屈にあうように余分な言葉を加えて翻訳する必要はありません。
喩え話は、内容とそれを語られた主イエス・キリストとを切り離して考えてはならないのです。「神の国」つまり「神のご支配」は主イエスの宣教とともに始まります。「ともし火」はこの罪の世に救いの希望をもたらします。高く掲げてはじめて、ともし火は部屋の中を明るくすることができるのです。土間やベッドの下に置くと、十分に光を行き渡らせることができません。宝の持ち腐れです。もったいない!! 「キリストとともに救いが来た」とみんなに告げて回ること、それが伝道です。弟子たち、すなわちキリストをともし火として信じる教会は、ともし火を高く掲げて燭台の上に置き、「キリストにこそ、光があります」と宣伝して回るのです。
一時期、ともし火が人の目から隠されているように見えることがあります。しかし、内に秘められているだけで、輝く力を無くしたわけではありません。燭台の上に置きさえすれば、ともし火そのものが光り輝きはじめます。伝道とはその光そのものの力を信じて、掲げることを意味するのです。
政所 邦明 牧師
種をまく人
マルコによる福音書 第4章1-20節
主題聖句:「良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて受け入れる人たちであり、…」
マルコによる福音書 第4章20節
マルコによる福音書を読み始めて、主イエスのなさった説教をまとめて書いてあるところはありませんでした。しかし、この4章からは内容が詳しく記されています。その教え方の特徴が「たとえ」です。「…多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが…」(第4章34節)この後にこのように出てきます。主イエスの用いられた説教の形式がすべていわゆる〝喩え話〟であったとは考えにくいのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って主イエスは宣教を開始されました。伝えたい内容の中心点は「神の国」あるいは「福音」であるはずです。その内容を伝えるのにもっとも適している語り方として「たとえ」を主イエスが用いられたということでしょう。
「たとえ」は旧約聖書以来「知恵の言葉」あるいは「謎」と考えられてきました。ある意味隠されているのです。カプセル状のお薬のように、中味は外界からは隔てられています。主イエスの教えを聞いて受け入れ、決断して従う時にはじめて真価を発揮します。神のご支配は外側から眺めているだけではわかりません。信じて従ってみた結果、「なるほど、神さまが自分を捕まえくださっていたんだ」と、後から体験的に納得するものなのです。
「たとえ」は〝両刃の剣〟です。聞く人が心を閉ざして、真理の中に飛び込もうとしなければ、殻の中に閉じ込められた〝神の国の奥義〟が聞くものに届きません。だから「聞き方に注意せよ」と主イエスは言われるのです。弟子には神の国の秘密が打ち明けられています。聞き方によるのです。