2015年1月25日 礼拝説教要旨

包んで赦す愛

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第4章10-11節

 

主題聖句:「神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」             

(ペトロの手紙一 第410)

                                    

 

イエス・キリストのご愛は「包んで赦す愛」です。この前の9節では「愛は多くの罪を覆う」と言われていました。それは都合の悪い罪を一時しのぎで隠すことではありません。根本的に解決するために“罪を赦す”のです。「包んで赦す愛」は赦された人を新しく造りかえ、力を与えます。そして自分のためではなく、神の栄光を求めて生きるように促します。

その人の存在そのものが神の贈り物・〝賜物〟であることには違いありません。しかし、神がそれぞれに賜物を与えておられます。何も秀でた才能のことだけを考える必要はないでしょう。「自分は何もできない」と、ことさら自分を卑しめる人がいます。そんなことはありません。〝救い〟という何ものにも代えがたい素晴らしい贈り物を与えられているではありませんか。イエス・キリストが十字架にまでかかり、甦らたのに、「包んで赦す愛」を貰っていないと主張すれば、これほどの恩知らずはないのです。

 

何も貰っていないことはありません。気がついていないだけでなく、与えられているのに、あるがままを見ようとしないのです。しかも所有者ではなく管理者だと言われています。ほかの人のものを預かっているのですから、いつも所有者に対して責任があり、大切に、しかも〝宝の持ち腐れ〟にならないように活かして用いる期待を管理者にかけられています。

 

贈り物は自慢したり、〝自己実現〟すなわち、自分のために才能を開花させたりする目的で使うのではありません。「互いに仕えあうため」です。独り占めを考えているとすれば、「包んで赦された者」の名に値しないのです。

2015年1月18日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

祈り、愛しあう

ペトロの手紙一 第4章7-9節

主題聖句:「愛は多くの罪を覆う。」       

(ペトロの手紙一 第48) 

                                   

イエス・キリストの復活によって最初の教会が生み出されます。福音は各地に広がり諸教会ができていきます。その諸教会が共通に抱いておりましたのは、“神がご自身の力と決断とにおいて今ある世界を終わらせる”という信仰です。それは〝地球の爆発〟〝この世の滅亡〟ではありません。良き意志をもって業をお始めになったお方が、無責任に途中で放り出したり、失敗した残骸を残したりはなさらないのです。最後までご意志を貫いて、わたしたち人間の救いを完成させてくださいます。

 

ですから、むやみに怯えたり、騒ぎたてたりするのを慎まねばなりません。この8節の前に「身を慎んで、よく祈りなさい。」と勧められています。「身を慎む」とは〝しらふ〟、つまり酒に酔っ払っていないことです。自分の罪にも、移ろいやすい感情にも振り回されず、「覚めた目で、冷静に、神のなさる業にじっと目を留めていなさい」とペトロ先生は命じられます。祈りなくして冷静でおれるはずがありません。

 

人の弱さや失敗につけ込み、あばいて、攻撃する時代です。そっとしておき、傷に触れないで優しく包んであげれば、悩んでいる人はどれほど気が楽でしょうか。しかし、ここでは〝弱さ〟〝失敗〟ではなく罪が問題とされています。罪を覆うのです。罪をそのままにして見てみぬふりをするのではなく、罪を赦すのです。「われらに罪を犯す者を、われらが赦すごとく」と主イエスは教えられました。その方が十字架の上で、「父よ、彼らを赦したまえ」と祈られました。赦しを後輩たちに説きながら、ペトロは自分のことを思っていたのです。赦しの恵みを数え、感謝していたに違いありません。

2015年1月11日 礼拝説教要旨

洗礼とは

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第3章21-22節

主題聖句:「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると…」

(ルカによる福音書第3章21節)    

 

“主イエスが洗礼を受けられた”とマタイもマルコもルカも書いています。そのうち、マタイとマルコの記述からはバプテスマのヨハネから、ヨルダン川で受洗されたことが伺えます。ルカは“どこで、だれから”受けられたかについて明記していません。ただ、民衆が洗礼を受け、その民衆の一人に加わるように主イエスが受洗されたと記しています。上記のみことばは民衆と主イエスの受洗とがきわめて密接であると簡潔に示しているのです。

 

罪のない神の子がなぜ、罪を抱えたままの民衆に紛れるようにして洗礼をお受けになったのでしょうか。罪のない方には必要ないはずです。この時点では謎が残ると思います。しかし、数年後、主イエスが弟子たちから裏切られ、逮捕される前に12弟子たちに言われたことばがあります。「…『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。…」(ルカ22章37節)これはイザヤ書53章12節の引用であると言われます。この言葉と主イエスの洗礼とは密接に関わるのです。

 

主イエスが宣教をなさる前に民衆の一人に紛れるように洗礼を受けられたのは、伝道のご生涯の目的が、罪人の罪を一身に引き受け、身代わりに死ぬことを暗示しているのではないでしょうか。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と天から声がありました。(ルカ3:21)ここにもイザヤ書第42章の言葉が含まれています。イザヤ第53章同様、苦難を受ける僕の姿を預言したものです。罪のない主イエスもまた洗礼を受けられたのは、罪深いわたしたちを救うためにこられたことを明らかにしているのです。

2015年1月4日 礼拝説教要旨

ひとり子を賜う愛

 

政所 邦明 牧師

 

ヨハネによる福音書 第3章16-21節

 

主題聖句:「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

(ヨハネによる福音書3:16)

                                    

この、みことばは前後の文脈から切り離して暗唱されることが多いのです。しかし、14,15節と16節とを繋げて読むのが優れた理解だと思います。15,16節に共にあるのは「永遠の命を得る」で、両節の関連を示しています。

 

ただ14節の言葉は、民数記第21章4節以下の出来事を知らねばなりません。約束の地を目指して40年間、旅をしていたイスラエルの民は、不信仰を起こし神に反抗します。そのため、神は〝炎の蛇〟を送られ、蛇が噛んだために、多くの民が死んでしまいました。民は悔い改め、神に救いを求めます。すると神は答えられました。…青銅で蛇を鋳造し、それを旗竿の先に掲げなさい。青銅の蛇を仰ぎ見る者は、実際の蛇に噛まれても命を得る…。

 

わたしたちはイエス・キリストの十字架と復活を知っています。十字架にかかられたイエス・キリストを仰ぐと救われ、永遠の命が与えられると信じているのです。“旗竿に掲げられる”青銅の蛇と、十字架に掛けられ、死んでいかれるイエス・キリストの姿とを重ねなさいと言われるのです。

 

生まれながらのわたしたちは体の中に毒をいっぱい抱えています。そのままでは、滅びてしまうのです。鋳造した青銅の蛇ではなく、わたしたちの救いのために御独り子イエス・キリストを十字架に架けられました。〝十字架に上げられねばならない〟(14節)のです。ほかに方法はありません。もしあったらなら、どうして愛する御子を差し出したりなさるでしょうか。神の造られた人間が滅びて良いなどと少しも考えておられません。だから最大の宝物である御子を与えてくださいました。ここに神の愛が示されたのです。