2015年3月29日 礼拝説教要旨

最後の晩餐

 

政所 邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第22章14-23節

 

主題聖句:「『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』

ルカによる福音書 第22章19節 

                                   

過越しの食事の時です。パンを取り、それを裂いてから上記の言葉を主イエスは言われました。〝人間とは体だ〟と言った人があります。主イエスが言われる〝体〟とは、肉体も精神も魂(宗教心)も、まるごと含めた〝その人全部〟あるいは〝その人そのもの〟を指しています。主イエス様はまるごとすべて、命さえも、わたしたちにくださるのです。

 

その後、杯をも同じように使徒たちに与えられます。そして「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました。“血が流される”とは死傷者が出ることを間接的に意味します。先述の〝体〟は肉体に流れる血液も含みます。肉の部分も血の部分もすべてイエス・キリストはわたしたちのために差し出してくださるのです。裂かれた肉体から血が流れ出る。明らかにご自分の十字架の死を指し示しておられます。「与える」…イエス・キリストの方から準備し、積極的に与えようとなさいます。わたしたちの救いのために主イエスの犠牲はどうしても必要でした。わたしたちの心は鈍く、「そんな必要がありますか」などとキョトンとしています。過越しの食事の席で、「これぞ、わたしの体。これぞ、わたしの血」とおっしゃって、これから起こることの意味を前もって解き明かされます。十字架の上で、肉体を裂かれ、血を流されることとこれらの言葉とは結びつかないかもしれません。しかし、あらかじめ出来事の意味を解き明かしていなければなりませんでした。過越しの小羊として、わたしたちの救いのために命を投げ出してくださることを明かにしてくださったのです。

 

2015年3月22日 礼拝説教要旨

葬りの用意

 

政所 邦明 牧師

 

マルコによる福音書 第14章1-11節

 

主題聖句:「…前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。…この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」

マルコ14:8,9

 

高価な香油を主イエスの頭に、ひとりの女性が注ぎました。香油の入った壺を壊したのですから、全部を主イエスのために献げるつもりです。この行為に主は、最大級の褒め言葉をお与えになります。「できるかぎりのことをしてくれた」(8節)「どこでも福音が宣べつたえられる所では、この行為が記念して語り伝えられるだろう」(9節)この預言のお言葉は的中します。福音を聞く教会ではこの婦人のしたことが礼拝で読まれ、それを味わうようになりました。〝埋葬の準備〟としての香油注ぎです。

 

祭司長たちが主イエス殺害を計画している緊迫した場面です。しかし、この女性が見据えているのは〝死〟の更に先の埋葬です。なんと気の早い支度でしょうか。体全体に塗ろうと思えば、かなりの量の香油が必要となり、壺を壊すのも納得できます。

 

使徒信条では「死にて葬られ、陰府に下り、三日目に死人のうちより甦り」と告白します。死は葬りによって確定し、キリストは死んだ人のゆく〝陰府〟にまでお降り下さいました。死後3日間も経っています。「完全な死を経験してくださった」と使徒信条は念を押しているかのようです。そうまでして、人を罪から救おうとなさいます。それに応えて〝できるかぎり〟の感謝と敬意をこの婦人は、行動で現しました。無実の人の非業の死だから主イエスの死を悼むのではありません。人を救ってくださるからです。それを福音として聞く教会は、埋葬される主に感謝を献げるのです。

2015年3月15日 礼拝説教要旨

恵みに踏みとどまれ

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章12-14節

 

主題聖句:「…短く手紙を書き、…これこそ神のまことの恵みであることを証しました。この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。」

ペトロの手紙一 512

 

 ご一緒に読んで、礼拝をしてきたペトロの手紙一も最後の部分になりました。パウロは目の病気を患っていたと言われています。十分に字を書くことができず、いわゆる〝口述筆記〟をしたのかもしれません。その際の助け手がシルワノです。それでも最後の挨拶は自筆で書いたと考えられます。たくさん書けない分、訴えたいことを短く凝縮したのでしょう。全体を一言でまとめて「これこそ神のまことの恵み」(12節)と申しました。

 

この手紙で「恵み」と新共同訳聖書に訳されている文字は9個です。もとの言葉は「恵み」でも、日本語にする場合、別の言葉に訳されたものが2つあります。「恵み」を「御心に適う」と訳しました。(第2章19、20節)不当な苦しみ、善を行っても苦しみ、それを耐え忍ぶなら、それは神の「恵み」、御心に叶い、神がお喜びになることだとペトロは言ったのです。

 

「恵み」には「与えられる」という修飾語が付いています。(1章10,13節) いくら神が与えられるとしても、苦しみはいやで避けたいものです。しかし、手紙を受け取る諸教会は苦しみと試練の中に置かれていました。迫害が起こっているのかもしれません。そのような情況を知りつつ、主イエスが十字架で不当な苦しみを受け、ご自分の尊い血で、先祖伝来の空しい生活からあなたがたを救ってくださったとペトロは語りました。最後にもう一度「これこそ神のまことの恵み」と念を押したかったのです。神の恵み以外にキリスト者が苦しみに耐えて立つ場所はないからです。

2015年3月8日 礼拝説教要旨

 

悪魔への抵抗

 

政所 邦明 牧師

 

ペトロの手紙一 第5章8-11節

 

主題聖句:「…悪魔が、…だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。」

ペトロの手紙一 589

 

 人生そのものが戦いであるだけでなく、信仰に生きていく時も戦いは付きものです。しかし、信仰の戦いは固有の性質を持っています。それは①祈りにおける戦いであり、②神を拝むか、悪魔を拝むか、どちらか一つを選ぶ戦いと言えるでしょう。

 

「悪魔」などというと中世までの話で、現代人には〝非科学的〟でしょうか?しかし、すきあらば、神への信仰から引きずり降ろそうとする悪しき力が確かに働いているのをキリスト者は本能的に知っています。悪魔はどのような手を使ってくるかわかりません。確かに不気味です。しかし、イエス・キリストが罪にも、滅びにも勝利をしてくださっています。信仰者は恐れることはありません。その際にペトロは教会に次のように薦めます。

 

1.身を慎む。…もとの意味はお酒に酔わないしらふの状態を指します。沈着冷静、平常心を保つことでしょう。各自の気の持ちようではありません。信仰を持って不動の岩、神に確かな根拠を見出すのです。「主はわたしの岩、砦、…避けどころ、わたしの盾、救いの角」(詩編第18編3節)

 

  1.  目を覚ましている。…ゲツセマネの園で、目を覚まして祈るようにペトロは主イエスから命じられました。その戒めに背き、眠り込んでしまったのです。自分の失敗からすれば、ほかの人に偉そうに薦められた義理ではないでしょう。しかし、1.も2.も結局、「信仰にしっかり踏みとどまること」につながるのだと、あえて言わざるを得なかったのです。