2015年4月26日 礼拝説教要旨

ヤコブとエサウ

 

政所 邦明 牧師

 

創世記 第25章19-34節

 

主題聖句:「…二つの民があなたの腹の中で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる」    

創世記第25章23

                                   

旧約聖書の神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。親・子・孫、3世代に亘って、神の祝福の約束が受け継がれて行きます。アブラハムは〝信仰の父〟として尊敬されてきました。神の祝福の約束を信じ抜いた模範であり、〝ひな形〟の人物と言えるでしょう。しかし、祝福の約束を受け継ぐのは容易ではありません。イサクに双子の男子が授かります。胎児の時から二人は母親の胎内で争い、出産の時には行く末が案じられる出来事が起こります。先に産まれた兄エサウのかかとを掴んだまま、弟ヤコブが続いて産まれたのです。“兄を先に行かせたくない!”とする野心を、かかとをつかむ行為で弟ヤコブは表したのだと思います。

 

二人が大人になり、長男としての神の祝福の約束をどちらが受け継ぐかで争いが起こりました。弟ヤコブは周到に準備し、機会を伺い、兄の弱みにつけこんで、一杯の食べ物と長男の特権とを巧みに交換させてしまいます。創世記は「エサウは長子の権利を軽んじた」(25:34)と評定をくだします。ヤコブはずる賢いのです。褒められることをしたとは思いません。ただ神の祝福の約束は何としてでも手に入れたいと願いました。私たちがヤコブから学ぶべき点があるとすれば、あらゆる機会を捉え、力を尽くして救いを得たいと願う心を彼が、持っていたことではないでしょうか。しかし、兄も弟も両親も人間の欲や好みをむき出しにして策略をめぐらし、駆け引きをします。私たちの姿を見るようで嫌になります。でも「兄は弟に仕える」と予告されていた神のご意思が、色々な人の思惑に阻まれることなく、貫かれたのです。

2015年4月19日 礼拝説教要旨

驚くべき光の中で

 

政所 邦明 牧師

 

ルカによる福音書 第5章1-11節

 

主題聖句:「シモンは『…しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えた。」              

ルカによる福音書 第5章5

                                    

一晩中、漁をしても何も取れなかったペトロに「沖へ漕ぎだして、網を降ろし、漁をしなさい」と主イエスは命令されます。長年魚をとって生計をたててきたペトロにとっては、非常識極まりない指令です。〝それにもかかわらず〟漁師としての理性的な判断より、主イエスの言葉に信頼し、ペトロは身を委ねました。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。」

 

この出来事を「ペトロたちの上に輝くばかりの光を、神は照り輝かせられた」と理解することができます。失敗し、失意の中に落ちてしまうことがあります。自分で気持ちを立て直し、もう一度仕事に挑んでみるのは簡単なことではありません。しかし、イエス・キリストと関わりのある人間は、用意を整え、臆病になることなく、意欲を抱いて仕事に赴くようになるのです。

 

シモン・ペトロは何かしたのでしょうか。ただ、主イエスのお言葉に従っただけです。むしろペトロは何もしなかったと言った方が良いでしょう。神がなさっておられる御業の前にたち、そこに居合わせただけなのです。

 

「闇の中を歩む民が、大いなる光を見、…(彼らの)上に光が輝」きました。(イザヤ書9章1節)復活なさり、ペトロの罪を赦されたイエス・キリストの救いが、ペトロの上に照り輝いていると言ってもよいでしょう。主イエスとペトロとの出会いは、キリストの復活の光の中で読むと、いっそう意味が深くなります。「この明るさのなかへ ひとつの素朴な琴をおけば 秋の美しさに耐えかね 琴は静かに鳴りだすだろう」(八木重吉) 復活の光がペトロに差し込み、主のお言葉がペトロを新しい使命へと突き動かすのです。

 

2015年4月12日 礼拝説教要旨

主イエスを愛する

 

政所 邦明 牧師

 

ヨハネによる福音書 第21章1-19節

 

主題聖句:「…ペトロはイエスが3度も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった。」         

ヨハネによる福音書第21章17

                                    

復活なさったイエス・キリストはティベリアス湖(ガリラヤ湖の別名)畔で弟子たちに現れなさいます。ペトロには3度も「わたしを愛しているか」と尋ねられました。同じことを3度も聞かれたのでペトロは〝悲しくなった〟とヨハネ福音書は記しています。「よほどイエス様から信頼されていないな」とペトロは思ったのかもしれません。また、主イエスが十字架に掛かられる前に3度も「あの方のことを知らない」と関係を打ち消した出来事を思い出し、おそらく心が疼いたのでしょう。

 

これからご自分の大切な羊たちの指導をペトロに委ねようとしておられます。信頼しているからこそ大事を任せるのです。そのためにペトロが主を愛し、信じて従ってくる気が本当にあるかを確かめたいと思われるのは当然と言えます。生半可な気持ちでペトロにお尋ねになったとは思いません。

 

何度も聞かれるので、結果として、ペトロは追い詰められることになります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ…」とパウロは申しました。(コリントの信徒への手紙二第7章10節) 神が導いて下さる悲しみによって、ペトロは悔い改めに至ります。これから群れの指導者になるペトロにとって必要な事です。

 

自分の愚かさ、罪深さと同時に、主に対する愛の無さも思い知らされたでしょう。新しく造り替えられ、再出発するためには自分の無力を知るだけではなく、主イエスの恵みを深く味あう必要があります。愛を尋ねられることによって、これまで以上に主を愛する大切さをペトロは確認したのです。

2015年4月5日 礼拝説教要旨

政所 邦明 牧師

 

わが主よ わが神よ

 

イザヤ書 第25章6-9節

ヨハネによる福音書 第20章28節

 

主題聖句:「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

ヨハネによる福音書 第20章29

  

仲間の弟子たちにトマスは言いました。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(25節)原文では「この私の指を」「この私の手を」となっていて、「私の」がしつこく繰り返されています。自分で確かめてみたいというのです。さらに、「あの方」と主イエスのことを呼んでいます。これも他人行儀な言い方です。数年間そば近くにいて導かれた恩義はどこに行ったのでしょうか。見て、触れて、確かめなければ絶対に信じないと強く心に誓っている感じです。どうしてそこまで意固地になるのでしょう。

 

8日前の復活日、弟子たちに主イエス・キリストが現れなさった時、何かの都合でトマスはその場に居合わせませんでした。自分だけが置いてきぼりを食ったように感じたのかもしれません。不安と怖れとは人の心を頑なにします。ところが8日経過して、ほかの弟子たちと一緒にトマスにも復活の主は現れてくださいました。「あの方」と言っていたトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と賛美を込めて信仰を言表します。イエス様との距離がグーンと近づいています。変化をもたらした大きな出来事があったはずです。

 

弟子たちの心を支配していたのは人への恐れです。(19節)霧を吹き払うように恐れから解放するのは「平和があるように」と言って近づいてくださるイエス・キリストの力によるのです。この時には、〝見る〟とか〝指を入れる〟などには、もはやトマスはこだわらなくなっていました。見ないで信じる信仰に導かれつつあるからです。その信仰を幸いだと主は言われます。