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あゆみ

2015年5月31日 礼拝説教要旨

2015年5月31日

語らせる神・聖霊

 

政所 邦明 牧師

 

使徒言行録 第2章1-13節

 

主題聖句:「…彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」                 

使徒言行録第2章11

                                   

「聖霊なる神様は、あなたたちのところへ必ず来られます」と主イエスは使徒たちに言われました。「聖霊が使徒たちの上に降られる」…これは、父なる神様の約束でもあります。だから「父の約束を待て!」と主は繰り返されました。その時が復活から50日目にきます。祈って備え、〝聖霊降臨〟を待っていた使徒たちの群れについに聖霊がくだられました。

 

この時、自分たちだけに分かる言葉を使徒たちは語ったのではありません。聞いている人にもちゃんと理解できたのです。5旬祭のため、世界各地からユダヤ人たちが巡礼で、エルサレムに来ていました。土地によって言語も違うはずです。ガリラヤの人々から「神の偉大な御業」を、巡礼者たちは聞くことになります。しかも、“聞いても分かる”のです。これは各地に住むユダヤ人たちにとって驚きであったに違いありません。

 

「わたしたちの言葉で」とは、聖霊を受けた使徒たちの言葉がよく理解でき、内容が〝心に届いた〟というのでしょう。「罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス様の名によってあらゆる国々の人々に宣べつたえられる」と復活の主は予告されました。(ルカ24:47) その約束が実現し、世界宣教の開始を予感させる出来事が聖霊降臨の日に起こったのです。聖霊を受けた人々の言葉が、自分とは関係のない〝他人ごと〟ではなく、自分たちに向けて語られた内容であると聞く人々に分かりました。自分たちにも通じる言葉で、救いが語られている出来事に人々の心が動き始めます。「イエス様を主」と告白する信仰へと導くのは聖霊のお働きによるのです。

2015年5月31日 日曜礼拝(音声)

2015年5月31日

2015年5月31日 日曜礼拝(動画)

2015年5月31日

2015年5月24日 礼拝説教要旨

2015年5月24日

聖霊が降る

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第1章1-11節

主題聖句:「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」           

  使徒言行録第1章5

  

ガリラヤで宣教活動を始められる前に主イエスはバプテスマのヨハネのところにゆかれ、洗礼を受けられます。ヨハネは次のように言います。「自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとからおいでになる方、すなわちイエス・キリストは聖霊により洗礼をお授けになる」…このヨハネの言葉は主イエス様の耳に届いていたはずです。しかし、ことさらには言及されません。黙っておられましたが、やがてそのような時がくるのを承認して、時を待っておられました。

 

宣教されたのち、最後は十字架で、罪の裁きの刑罰を受けてくださいました。そして甦り、40日に亘って使徒たちに現れなさいます。そこで、ヨハネが語った言葉を改めて口にされます。「あなたがたは間もなく、聖霊による洗礼を授けられる」主イエス様の甦りによって水による悔い改めの洗礼は確かな根拠を持ちました。神が行われた救いの業が水で洗礼を受けた者に、目には見えなくても、救いの現実とならなければ意味がありません。そのために間もなく聖霊が働いてくださるのです。主イエス様の救いが聖霊なる神のお力により、その人にグングン迫り、「確かに自分は罪赦されている」との確信が与えられます。エゼキエル書第11章16節には、「一つの心に新しい霊を授ける。その霊が働いて、肉から石の心を取り除き、肉の心を与える」と預言されていました。聖霊が来てくださる時、目が開かれます。頑なさが砕かれ、救いを受け入れる心が与えられるのです。

聖霊は、わたしたちに救いの確信をハッキリさせてくださるのです。

2015年5月24日 日曜礼拝(音声)

2015年5月24日

2015年5月24日 日曜礼拝(動画)

2015年5月24日

2015年5月17日 礼拝説教要旨

2015年5月17日

神にのみ頼る

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第6章6-13節

主題聖句:「…イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、12人を呼び寄せ、2人ずつ組にして遣わすことにされた。」  

マルコ6章6,7節 

                                  

ガリラヤの町々村々を巡り歩いて、主イエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えられます。「神のご支配がこのお方と共に始まっている」…これが宣教の内容です。しかし、聞いた人が快く受け入れてくれるとは限りません。故郷ナザレでは、会堂に集まった人がイエス様につまずき、不信仰に陥ります。(5節)、それでも主はひるまれません。伝道を続けられ、志と熱意とは、変わることはありませんでした。

 

活動を始められた時、まず4人の漁師に「わたしについて来なさい」と声をかけられます。さらにこれと思う人を呼び寄せます。その中から、12人を選び抜かれ、「使徒」と名前をお付けになりました。「12人を(ご自分の)側に置く」(3章13,14節)ことが選抜の第一目的です。12人は主と行動を共にし、教えを聞き、また、主の力ある業に立ち会いました。

 

12人の選任後、ご自分は伝道の最前線から身を引き、宣教は弟子たちに任せることもできたはずです。準備が整い、12弟子をふたりずつお遣わしになる時でさえ、主イエスが伝道の業をおやめになるわけではありません。依然として中心には伝道なさろうとするイエス様がおられます。冒頭の6,7節のみ言葉は、一見当たり前のようでありながら、伝道の中心が主イエスであるのをよく示しています。「使徒」たちは主イエスの伝えられた「神の国の福音」を託されたにすぎません。12人は、ご命令に従い、主の業を受け継ぎます。この御方が、神の守りと支配とを、保障してくださるからこそ、持ち物を最低限に留め、神を信頼し、安心して出て行くのです。

 

2015年5月17日 日曜礼拝(音声)

2015年5月17日

2015年5月17日 日曜礼拝(動画)

2015年5月17日

2015年5月10日 礼拝説教要旨

2015年5月10日

政所 邦明 牧師

 

共にいて下さる神

 

創世記 第31章1-13節

マタイによる福音書 第28章16-20節

 

主題聖句:「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」           

マタイによる福音書第2820

                                   

復活された主イエス・キリストは弟子たちを再びガリラヤに集められます。ここを新しい出発の場所とされたのです。ガリラヤの高い山で11弟子たちに主イエスは出会ってくださいました。紛れも無い出来事として復活された方が神の力をもって現れてくださったのです。その厳かさにうたれたのでしょう。弟子たちはひれ伏さざるを得ません。礼拝をします。しかし、この時の様子をマタイ福音書は正直に伝えています。「疑う者もいた」何人かの者は疑ったのです。完全に信じた人と疑いを含んでいた人と2つのグループがあったとは思いません。みんな大なり、少なり、信じることにためらいがあったのです。完璧な信仰者などありません。目の前にイエス様がいらっしゃいます。疑いようなどないはずです。「幻でも見たのか」と自分の目を疑ったのでしょうか。そうではなく、思わずひれ伏した弟子たちにとっても、常識からすれば“復活はありえない出来事”であり、戸惑いを覚えざるを得なかったということでしょう。見たり聞いたりする自分の感覚にだけ頼ろうとすると、主イエスの復活は不確かになります。復活は見て確かめるのではなく、最後は信じるべき事柄なのです。

 

弟子たちから疑いを取り去って、その後伝道に遣わされようと主はされません。疑いがあったとしてもそのままにして、弟子たちに近づいてゆかれ、宣教の命令を出して、遣わされます。弟子たちは宣教する中で主イエスが自分たちと共におられることに気がついていきます。伝道の経験の中で疑いが消えて行き、主が生きておられる確信に変えられていったのです。

 

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