2015年8月30日 礼拝説教要旨

イエス様はメシア

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章27-30節

 主題聖句:「それでは、あなたがたはわたしを何ものだというのか」ペトロが答えた。「あなたはメシアです」    

マルコによる福音書第8章29

                                   

フィリポ・カイサリアの地方に弟子たちと主イエスが向っておられた時のことです。さりげない様子で、「君たちは私のことを何者だと言うのか」と弟子たちに質問されました。「言う」とは言葉にハッキリ表すことです。心秘かに、「ああでもないこうでもない」といろいろ悩み、迷った状態で留まっているのとは違います。口に出すのです。結論をひとつに定め、責任をもって答えます。その答えそのものが、答えた人のその後の生き方、信仰生活の方向を定めます。生き方そのものにも責任が問われるのです。

 

「あなたはどう言うか」とそのものズバリを質問される前に、別の問いかけをキリストはなさいます。…「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」…それに対して、「洗礼者ヨハネ」と「預言者エリヤ」の名を弟子たちは挙げます。その時二人はもう地上にはおりません。つまり死んでしまった人間が再来したと言うのでしょう。ほかに宗教的天才、偉人、などいろいろな言い方をした人がいたはずです。しかし、どれも主イエスが期待され、望まれる答えではありませんでした。〝これぞ答え!〟はひとつです。主イエス様はすでにご自分でちゃんと答えを持っておられるのです。弟子たちが口で告白するまで、待っておられるのでしょう。

 

しかし、正解を言い当てれば、「それでおしまい!」ではありません。「あなたはメシアです」…メシアとは救い主を意味します。口で言いあらわすだけでなく、確かに私を救ってくださると信じて、この御方に自分自身を投げかけ、実際に救っていただいて、始めて告白が意味を持つのです。

 

2015年8月23日 礼拝説教要旨

 

キリストが見える

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章22-30節

 

 主題聖句:「イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」

マルコ福音書8章25

 

                                   

この箇所のすぐ前で「…悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか」(8章18節)と主イエスは弟子たちに理解を求められました。弟子たちの姿との比較で、ベトサイダにおいて盲人がいやされ、見えるようになります。この奇跡と弟子たちの姿は無関係ではありません。この後の8章29節において、「イエス様はメシアだ」とペトロが告白する出来事に繋がってゆきます。病のために視る力を持たなかった人が視力を回復してゆく、…ここは、単にそれだけの話ではありません。信仰の目をもって、主イエス様をどう見るかが問題なのです。

 

人から教わらなくても、生まれながらに他人の粗捜しをする能力を私たちは身につけています。その代わり、自分の本当の姿をあるがままに見ようとはしません。自分の欠点には目をつぶるのです。それなのに、「自分は見るべきものをちゃんと見ている」と言いはります。…見えていないのに、見えているつもりでいる。…だから余計に始末が悪いのです。

 

「愛はすべての咎を覆う」と聖書にあります。他人の悪を忘れれば良いのに、それができません。見なくても良いものに目を凝らし、見なければならない事柄から目を背けます。「神様!わたしは悟りの悪い、物事が見えない者です」と素直に認め、「導いてください」と助けを求めれば、その一点から始められます。神様のお力によって、目が開かれてゆくのです。イエス様が、私たちの信仰の眼を開いてくださいます。この御方が目を開いてくださる時、メシアであるイエス様の姿が見えてくるのです。

 

2015年8月16日 礼拝説教要旨

悟りなさい

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章11-21節

主題聖句: 「どうして、今の時代の者たちはしるしをほしがるのだろう。…決してしるしは与えられない。」   

マルコによる福音書 第8章12節 

 

「世の中、そして自分の将来はこれからどうなってゆくのだろう?」とわたしたちは心配になります。そのような時、将来を予測する手掛かり、〝しるし〟がほしくなる気持ちはわからないわけではありません。〝しるし〟によって、将来の良くないことに備えようとするのです。

 

しかし、信仰生活は本来、〝しるし〟(予兆)を必要としないのではないでしょうか。たとえば「信仰の父・アブラハム」を思い浮かべてください。行きなさいと神様が命令された時、アブラハムにはまだ行き先が示されていませんでした。手掛かりは何もありません。しかし、やがて必ず教えてくださるはずだと信じ、「行き先を知らない」でアブラハムは出発します。保証は神様がしてくださった約束だけなのです。

 

一方で「〝しるし〟は決して与えられない」と言われながら、同じ内容を記しているマタイや、ルカによる福音書では、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と主イエス様は言われました。預言者ヨナは三日三晩大きな魚に飲み込まれ、その後、吐き出されます。ヨナの姿を、ご自分の十字架の死と葬り、さらにはお甦りになぞらえられました。

 

ファリサイ派の人々にとっては、自分たちが思い描く、 “天からのしるし”と考えるものがあったのでしょう。それに照らすと、十字架と復活よりも、もっと“しるしらしいしるし”があると言って、この人たちは拒絶するかもしれません。しかし、〝しるし〟があるとすれば、救いの〝しるし〟は十字架と復活以外にはありえないと、主イエスは明言されるのです。

2015年8月9日 礼拝説教要旨

 

神の義

政所 邦明 牧師

ローマの信徒への手紙 第1章17節

主題聖句: 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」 

ローマの信徒への手紙第1章16

                                   

 

日本語の翻訳には現れていませんが、「福音は、」の前に「なぜなら、福音は」と元の言葉には接続詞「なぜなら」が置かれています。16節で、「わたし(パウロ)は福音を恥としない」と言っておいて、「なぜなら福音が、すべての人に救いをもたらす神の力だから」と理由を述べるのです。

 

新約聖書の中でも、ローマの信徒への手紙は救いについて順序正しく、ハッキリと書いている書物のひとつです。手紙の受け取り手の中には、まだ救いに確信を持てず、「恥」と思っている人がいたのかもしれません。

 

福音とは〝十字架〟で処刑されたナザレのイエスを〝救い主〟とする信仰です。ローマの人々が、なお複雑な気持ちを持っていたとしても不思議ではありません。パウロ自身は救いの確信を持っています。ほんとうは「恥としない」と言わず、「福音を誇りに思う」と積極的に言いたいのです。

 

しかし、それでは「恥」と思っている読者との間の距離を詰めることはできません。まずは相手の気持ちを十分に汲み取って、聞き手と同じ地平面に立つことが必要でしょう。そうでなければ、相手の心を開かせ、納得させることはできません。ところが「なぜなら」と、いったん理由を述べ始めると、今度は一歩も怯まない確信に満ちた強い調子に変わるのです。「福音はだれをも救う力を持つ」とパウロは断言しています。ユダヤ人として神から与えられた律法を守ってきた人も、そうでない諸外国の人も、救われるのに何ら差別はありません。福音はダイナマイトような破壊力を持ちます。罪の頑固さは福音の力でないと打ち破れないのです。