2015年9月27日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第9章2-8節

主題聖句:「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。」

マルコによる福音書 第9章3節

イエス・キリスト様とはいったいだれか?本当のお姿は何なのか!これが、マルコによる福音書の大きなテーマです。12弟子を選び出し、伝道をいっしょにする中で、主イエス様が弟子たちに伝えたい内容であったにちがいありません。ペトロが代表して「あなたは、メシアです」と答えます。言葉としては間違っていないのです。しかし、次に〝メシア〟(救い主)が意味する内容がしだいにイエス様によって、明らかにされてゆきます。

 

そこで、苦難を受け、排斥されて殺され、3日目に復活されるとイエス様は予告されました。「殺される」の部分にペトロは引っかかったのでしょう。イエス様を脇へ引き寄せていさめはじめます。そのような救い主では困る、受け入れがたいとペトロは抵抗を示したのです。殺されるのは惨めでみすぼらしいと決めつけました。

 

“三日目に復活する”とハッキリおっしゃっているのです。弟子たちに主イエス様の言葉が届いておりません。しかし、受難の予告の後、3人の弟子たちだけを高い山に連れてゆかれます。そこで主イエス様は姿が変わりました。着ておられた服が真っ白に光輝いたのです。服ではなく中味である主イエス様が神の独り子としての栄光を放たれました。やがて起こる復活の前触れと考えて差し支えありません。

 

無残な殺され方をするのと素晴らしさがきらめくのとは正反対です。どちらが主イエス様の本当のお姿なのでしょうか。救い主が私たちために苦しみをお受けになるからこそ、御子に神様が栄光をお与えになるのです。

2015年9月20日 礼拝説教要旨

死からの復活

政所 邦明 牧師

ペトロの手紙一 第3章18-22節

主題成句:「…キリストは、捕らわれていた霊のところへ行って宣教されました。」

ペトロの手紙一 第3章19節 

今日は、神様のもとに召された方々を思い起こし、礼拝をささげています。教会にゆかりのある方の生きておられた頃のお姿が心に浮かびます。
上記の「捕らわれていた霊のところ」はいろいろな理解が可能です。その一つは ―「すでに死んだ人のいる場所に」― の意味に解釈します。
“愛する者は自分の手の届かないところに行ってしまったのだ”…と家族を亡くした時、強く思わされます。しかし、生きているものと死んでしまった家族との間を隔てる深い谷間を主イエス様は、超えてくださいました。召された連れあい、両親、家族などのいる場所に、主イエス様は行かれます。たとえ途中を遮るものが無くても、犠牲を払ってまでわざわざ行ってくださるでしょうか。愛がなければできません。
ところが、滅びゆく人を惜しまれる主イエス様は、ひとりの人を探し求めて、陰府にまでも赴いてくださるのです。「捕らわれている」とは監視つきで自由に身動きの取れない所を意味します。さしあたり、牢屋が思い当たるでしょうか。自由を奪われるのは、すでに死んだものも、死におびえなければならないわたしたちも無関係ではありません。さらに、“人間は罪の奴隷である”と聖書は言います。
死にも罪にも捕らわれの身であるわたしたちを解放するために、主イエス様はただ一度、十字架につかれ、人間の罪を完全に償われました。たとえ、捕らわれ人たちのところへゆかれたとしても、救いがなければ無意味でしょう。イエス様が十字架で死なれたことこそが、確かな保証なのです。

2015年9月13日 礼拝説教要旨

十字架を負う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章34節-第9章1節

 主題聖句:「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」 

マルコ福音書第8章35

                                   

主イエス様は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節) 従う意志のある相手にだけ声をかけられるのです。したがって「自分の十字架」とは自ら進んで選び取るものです。自分の思いと関係なく、強制的に負わせられるものではありません。ともすれば、“自分は生まれつき体が弱い”とか、“天災や不慮の事故に巻き込まれた”などを自分の十字架だと考えたくなります。しかし、それらは、その人の責任ではなく、意志と無関係に負わせられた苦しみです。自分の力ではどうにもならないものを引き受けなさいと主イエス様は言われるはずがありません。

 

「自分の十字架」とは神様のために進んで背負うものです。苦しみ自体をことさらに美化してはいないでしょう。信仰生活は喜びであるはずです。

 

しかし、滅びに向かう人間を愛し、父なる神様は独り子イエス・キリスト様を送ってくださいました。わたしたちを救うために主イエス様は、十字架の死を選びとってくださったのです。この父である神様と御子イエス・キリスト様を愛するからこそ、キリスト者は十字架を進んで選び取るのです。誰でも愛する者のために犠牲を払ったり、辛さを引き受けたりします。その場合と違いはありません。救われ、命を与えられた者として苦しみを担います。その際も、主イエス様にどこまでもついて行くことが前提とされます。一人で歩くのではなく、先立って十字架を取られた方がおられるのです。その御方の背中を見つめながらついてゆくのです。

 

2015年9月6日 礼拝説教要旨

サタンよ 引き下がれ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第8章31-33節

 主題成句:「弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『…あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」 

マルコ福音書第8章33節      

ペトロが「あなたは、メシアです」と主イエス様に信仰を言い表しました。その告白を受けて、これからご自分の身の上に起こる出来事を弟子たちに話しはじめられます。宗教指導者たちから多くの苦しみを受け、排斥されて殺され、3日の後に復活する道をたどられるのです。苦難を受けて人を救うメシアを父なる神様は望んでおられ、お定めになっているのです。

 

自分たちの尊敬する大切な先生が殺されるなどあってはならないと思ったペトロは、聞いた途端に主イエス様をいさめはじめます。

 

「サタン、引き下がれ」とペトロに言われました。師弟関係に上下の秩序があるにしても、ひどい言葉です。ペトロが憎いのではありません。十字架にかかって死に、人の罪を償うあり方こそ、神様の願われる救い主の姿だと断固として言われます。しかし、十字架を避ける道をペトロは無意識のうちに持ち込もうとしました。主イエス様にとっては誘惑になります。〝十字架以外に救いなし〟です。自分たちに幸福をもたらすのが救い主ではありません。人間にいちばん必要なのは罪の赦しです。しかし、心が鈍くなっているため、罪からの救いを人間は切実に求めたりはしないのです。

 

神様からの導きと示しとを受けなければ、わたしたちはどのような救いが必要なのかはわかりません。自分にとって好ましい救いを求めるからです。十字架の死に向って進まれるのは主イエス様にとっても戦いであったに違いありません。しかし、あらゆる誘惑を退け、父なる神の望まれる救い主の姿を追い求め、最後まで従い抜こうとされたのです。