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あゆみ

2015年10月25日 礼拝説教要旨

2015年10月25日

 

すべての人に仕える

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第9章30-41節

 主題聖句:「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」   

マルコによる福音書 第9章37節 

                                  

12弟子を代表してペトロが「あなたこそメシアです」と信仰を言い表します。すると「排斥されて殺され、3日の後に甦る」と主イエス様はうちあけられました。自分の先生の身に災難が降りかかるなど、弟子たちは思いもよらなかったことでしょう。十字架と復活を通して人を救うメシアであるとおっしゃったばかりに、弟子たちに動揺が走ります。〝苦難メシア〟を受け入れるために激しい内面の戦いが始まるのです。

 

主イエス様は十字架にむかって進んでゆかれます。しかし、受難を予告されると、弟子たちの本性がクッキリと浮かび上がってきました。彼らは「自分たちの中でだれが一番偉いか」を議論し、のし上がることだけに心を奪われていたのです。「自分の十字架を背負って従ってきなさい」と主イエス様は命令されました。神の子であられるお方が、一番身を低くし、人の救いのために自分の命を献げ、仕えようとしておられます。なのに、それと真反対の方向を弟子たちは目指しています。そこで、主イエスの御心を教えるために子供を弟子たちの真ん中に立たせ、抱き上げられました。

 

子供は無邪気だから中心に立たせたのではありません。子供ではなく、忌み嫌われる病にかかった奴隷を真ん中に立たせられたとしたらどうでしょう。事柄がもっとハッキリしたはずです。値のない、最低の者を主イエス様は受け入れられます。いや罪深い私たちのために十字架にかかってくださいました。主イエス様に私たちは受け入れられているのです。それを恵みと受けとめる時、私たちもまた、人を受け入れることができるのです。

2015年10月25日 日曜礼拝(音声)

2015年10月25日

2015年10月25日 日曜礼拝(動画)

2015年10月25日

2015年10月18日 礼拝説教要旨

2015年10月18日

不信仰を助けたまえ

 

 

政所 邦明 牧師

 

 

マルコによる福音書 第9章14-29節

 

 主題聖句:「『できれば』と言うか。…その父親は…信じます。信仰のないわたしをお助けください。…」   

マルコによる福音書 第9章23、24

                                   

悪霊に苦しめられる子供を持つ父親がいます。その息子を主イエスのもとに連れてきました。霊は子供を引きつけさせ、地面に倒します。このような凄まじい力に苦しめられている現実を主イエス様もまた目の当たりにされました。厳しい現実を直視されても、それでもなお「おできになるなら、私たち親子を憐れんでください」と父親は主イエス様に願いました。「もしできるなら…」失礼な言い方です。 “ダメで元々、仮に結果がうまくゆきさえすれば、それでいい”的な、どこか逃げ道を作っています。

 

「『もしできるなら…』と言うのか」と主イエス様は問い返されました。「疑いを差し挟むような、無礼で、不適切な言い方をするなら、癒してあげないよ」と癒しを拒絶されたように感じたのでしょうか?父親は慌てます。「信じます。信仰のないわたしをお赦しください」「信じます」とは「信じたいと思います」くらいかもしれません。しかし、自分のことを「信仰のない私」と言いました。父親はとても正直です。

 

自分の無力や不信仰を告白し、一念発起して、努力すれば、すこしはましな信仰を私たちは持てる気がします。そうではありません。私たちは生まれつき罪に染まり、自力で信仰を持つことはできません。信仰は神様から与えられるのです。「信じるものには何でもできる」と主イエス様は言われました。信頼に足るお方は唯一神様だけです。神様だったら、いや神様でなければ、悪霊の支配からお救いになれないのです。何でもおできになる唯一のお方への信頼だけが私たちには求められているのです。

2015年10月18日 日曜礼拝(音声)

2015年10月18日

2015年10月18日 日曜礼拝(動画)

2015年10月18日

2015年10月11日 礼拝説教要旨

2015年10月11日

喜びの旅路

政所 邦明 牧師

使徒言行録 第8章26-40節

 主題聖句:「フィリポは宦官に洗礼を授けた。…宦官はもはやフィリポをみなかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」

 使徒言行録 第8章38,39節 

                                  

財務大臣にあたる立場のエチオピアの高官が、伝道者フィリポの導きで信仰を持ちました。フィリポがイザヤ書の言葉から主イエス様の福音を伝え、高官は洗礼を受けたいと言い出します。道の途中に川か、泉があったのでしょう。洗礼を受けて、水から上がるとこの人は喜びに溢れます。誰でもキリストによって救われるなら、新しく造られた人になります。古いものは過ぎ去りました。すべてが新しくなったのです。(コリントの信徒への手紙二 第5章17節) 先週、こちらの教会でも洗礼が行われました。すべての罪が赦されて、キリストと共に歩む人生が始まります。そのことを考えるだけで、心が高鳴ります。教会での洗礼の場面と高官の体験とを重ねてしまいました。高官の喜びはどれほど大きかったでしょうか。

 

当時は、地中海沿岸のいたるところにユダヤ人が住んでいました。その影響を受けて旧約聖書の教えに従い、生きていこうとする外国人も現れます。ただ高官は宦官であったと言います。女帝に仕えることもあり、去勢をしていました。エチオピアのために優れた能力を使おうと禁欲し、自己犠牲も厭わなかったのでしょう。旧約聖書には生殖機能をなくす手術を受けた男性は礼拝をする民に加われないと書いてあります。(申命記23:2)エルサレムに巡礼に行っても神殿の奥までは入れなかったのかもしれません。しかし、そのような旧約聖書のしきたりや国籍を越え、主イエス様は罪から救ってくださいます。「旅を続けた」とあります。その後の高官の人生がどんなに喜びにあふれたものであったのかを示しているのです。

2015年10月11日 日曜礼拝(音声)

2015年10月11日

2015年10月4日 礼拝説教要旨

2015年10月4日

主イエスの洗礼

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第3章21-22節

 

主題聖句: 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が…イエスの上に降って来た。」

ルカ福音書 第3章21節 

 

悔い改めの洗礼をバプテスマのヨハネは民衆に授けておりました。罪に染まった人間であることを、神の前に素直に認めるのが悔い改めです。さらに、罪人であるのをお詫びします。そして新しい人間に生まれ変わるのです。これらを象徴的に表すのが水による洗礼です。

 

悔い改めとは“神様の方に回れ右をする”つまり、神様へ心の向きを変えることだと説明されます。悔い改めは本人が自覚的に行うので、誰もその人に代わることはできません。ヨハネは民衆に悔い改めを呼びかけました。しかし、ヨハネの行動は、人々にきっかけを与えたにすぎないのです。

 

この民衆に紛れるようにして主イエス様も洗礼をお受けになりました。主イエス様は罪のない神の独り子です。罪のない方が洗礼を受ける必要はありません。けれども十字架にかけられる前「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する」と主イエス様は言われました。(ルカ22:37) すべての人の身代わりとして、十字架にかかられたのです。主イエス様の洗礼も、すべての人の罪を身に引き受ける出発なのです。「自分には受けなければならない洗礼がある」と言われ(ルカ12:50)十字架の死をご自分の〝洗礼〟になぞらえられました。

 

洗礼を受ける時、救いの確かさを〝自分の決心の強さ〟に置こうとします。「一生ぐらつかないで信仰を守り通すぞ!」と力こぶを入れます。しかし私たちはあやふやです。信仰の確かさの根拠は私たちにはありません。自ら、洗礼を受け、十字架にかかられた主イエス様にのみ、あるのです。

2015年10月4日 日曜礼拝(音声)

2015年10月4日

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