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あゆみ

2015年11月29日 日曜礼拝(音声)

2015年11月29日

2015年11月29日 礼拝説教要旨

2015年11月29日

神にだけできる救い

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章35-45節

 

 弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。」      

  マルコによる福音書第10章26節  

 

「金持ちが神の国に入るのはらくだが針の穴を通り抜けるより難しい。」と弟子たちに主イエス様は言われました。同趣旨の言葉は3度に及びます。財産そのものの良し悪しを言っておられるのではありません。「神様以上に財産を最後の頼みとする者は神の国に入るのが難しい」とおっしゃっているのです。キリストの教会はそのように理解してきました。金持ちであっても、貧しくても、財産を拠り所とする誘惑は同じかもしれません。

 

これだけ、徹底的に言われると「それではだれが救われるのですか」と弟子たちが反応するのもわかります。正直な気持ちだったのでしょう。

 

それに対して「人間にはできなくても、神様にはできる。神様だけが何でもおできになる」と主イエス様はお答えになりました。旧約聖書に何度も出てくる言葉です。しかし子供同士が遊んでいる時でも、あまり深く考えないで「神様は何でもおできになるもん!」と言うことだってあるでしょう。ごくありふれた言い方を用いながら、「救われる」、あるいは「神の国に入る」とはどういうことかを主イエス様は語られるのです。

 

〝神の国〟とは神に支配していただくことです。「神様に頼っているだけでは安心できない。神様に頼っているのは不安だ」と私たちは不敬虔にもつぶやきます。神様に身を任そうとしません。これでは「神のご支配に入れていただいた」とは言えません。神様だけがほんとうの安心をお与えになります。「神様にはおできになる。神様だからこそ、可能だ」だれでも言えそうな言葉で、実は深い真理を主イエス様はお語りになるのです。

2015年11月29日 日曜礼拝(動画)

2015年11月29日

2015年11月22日 礼拝説教要旨

2015年11月22日

主イエスに従う

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-22節

 

 主題聖句:「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い…それから、わたしに従いなさい。」

マルコによる福音書第10章21節 

 

                                  

たくさんの財産を持っている人と主イエス様との対話が始まります。この人が主イエス様に走りより、ひざまずいて尋ねました。その態度からもこの質問が切迫した、真面目な内容であることがわかります。

 

十戒のうちの第5~10番目の戒めをイエス様は答えられました。隣人や父母との関係、日常生活の中で、具体的に第1~第4番目の戒めを守ることこそ、永遠の命を受け継ぐ道だと諭されたのです。1~4では「ひたすらに神様だけを神とし、他のものを神としてはならない」と命令されています。

 

幼い時から戒めを守ってきた自負心がこの人にはありました。その人に向って「あなたに欠けているものが一つある」と主イエス様は言われるのです。石のアーチは最後の要石をはめ込まない限り、ほかの99%をいくら積み上げてもアーチにはなりません。少しの衝撃で崩れてしまいます。この人には財産が神様に代わるものでした。最後は富により頼み、支えにしていたのです。その偶像が心の王座を占めている限り、まことの神様を神様とすることはできません。足りないものがわずか一つでも、それが欠けているために神に従うことのできない決定的な一つだったのです。

 

「神おひとりのほか、善い方は他にだれもおられない」と主イエス様は言われました。主イエス様こそが神を神とされ、ご自分を捨てて、十字架に向って進んで行こうとされています。この方こそ「善い先生」以上の「善い方」つまり、神の独り子イエス様なのです。すべてを捨てて、イエス様に従う時、十字架の救いによって、永遠の命を私たちはいただけるのです。

 

2015年11月22日 日曜礼拝(音声)

2015年11月22日

2015年11月22日 日曜礼拝(動画)

2015年11月22日

2015年11月15日 礼拝説教要旨

2015年11月15日

子供を祝福する

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第10章17-31節

 

 主題聖句:「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

マルコによる福音書第10章15節 

                                  

〝子供!〟と聞くと何を連想されるでしょうか。無邪気、純真、素直などでしょうか。確かに一面、当たっています。しかし、未熟で、わがまま、感情の赴くままに行動する面も子供は持っています。聖書では、無条件に子供をほめたたえてはおりません。旧約聖書でも、また新約聖書でも子供は教えられ、しつけを必要とする未熟な存在なのです。

 

だとすれば、「子供のように神の国を受け入れる」とは「疑いもなく、素直に神の国を受け入れる」意味にかならずしもならないのです。子供は自活できず、ほかの人から助けを受けなければ生きていけません。“神の国を受け入れる”とは信仰に関することです。「素直に、信じる」以外を考えてみる必要があります。〝子供〟から喩えの意味を引き出すとするなら、おそらく、無力で、〝小さい〟側面でしょう。造られたけれども罪を犯し、神様から離れたために、私たち人間は無力なのです。救われるために無力なのは大人であろうと子供であろうと人間は同じです。ただ、大人よりも子供の方が〝力の無さ〟をよりはっきり示すにすぎません。救いのために無力であれば、どうしても謙遜にならざるを得なくなるでしょう。救いを求めようとすれば、与える人に向って、空っぽの手を差し出す以外にありません。まるで物貰いだと言った人があります。

 

神の国は、神様がすでにお造りになったのです。人間が造れるものではありません。また招待されなければ、入れません。神様が許可されてはじめて入れてもらえます。私たちはまったく受け身なのです。

2015年11月15日 日曜礼拝(音声)

2015年11月15日

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2015年10月11日 日曜礼拝(動画)

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