2015年12月27日 礼拝説教要旨

今こそ安らかに

政所 邦明 牧師 

ルカによる福音書 第2章12-18節

 

主題聖句: 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」            

ルカによる福音書第2章29節 

  

幼子イエス様が両親に抱かれて神殿に入ってきた瞬間、「主よ、今こそ…去らせてくださいます」とシメオンは語りはじめます。シメオンの言葉は「ヌンク(今)・ディミティス(去らせてくださる)」という題の讃美歌として教会の礼拝で唱われるようになりました。

 

「去る」とは(地上を)去る、すなわち「死ぬ」ことを意味します。まるで「死ぬ」ことを心待ちにしていたかのような言い方です。生きているのが苦痛だったのでしょうか。口では「死にたい」と言いながらだれでも心のどこかでは「何としてでも生き延びたい」と願うはずです。

 

しかし、〝今こそ〟とシメオンがいう時、気持ちが高ぶっているのでしょう。強がりでもなんでもなく「今こそ、安心して死ねる」と本気でいっています。「去る」には「願いが叶ったので、重荷と感じていたことから解放される」の意味が含まれます。ホッとした気持ちが強いのです。

 

「救い主を私の(両)目が(しっかりと)見たから…」― シメオンにとって神様の約束は現実となりました。「この地上にいる間に絶対に救い主に会わせる」と聖霊によって示しを受けていました。救い主に会えて自分は幸せ者だと思ったに違いありません。祝福の中におかれているのです。

2015年、教会員を多く天に送りました。信仰生活50年以上の方もおられれば、召される間際に信仰を言い表した方もおられます。信仰生活の長さは関係ありません。救い主にお会いすることが決定的で、お会いできれば、「思い残すことは何もない」とシメオンは教えてくれているのです。

 

2015年12月20日 礼拝説教要旨

主イエス・キリストの誕生

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第2章1-20節

 主題聖句:「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」    

ルカによる福音書第2章11

 

                                   

救い主がベツレヘムでお生まれになった時、ユダヤの国の人々は夜の静寂の中で眠りについていました。キリスト様の誕生を知らされ、出会ったのは夜通し羊の番をしていた羊飼いたちです。それに飼い葉桶の周りに集まったごく限られた人も加わります。ローマ皇帝に皇子が生まれたなら、国中にお触れを出して、お祝いの行事を行ったことでしょう。

 

それに比べ、真の救い主の誕生をほとんどの人が知らないのは、寂しい気がします。しかし、これこそが実はふさわしい知らされ方だったのです。

 

羊飼いたちは、人口調査の対象から外されていたのでしょうか。人々が先祖の出身地に帰って登録をしている間も、徹夜をして働いています。納税の義務も政府から期待されてはおりません。しかし、過酷な労働には従事しています。羊飼いたちにとって〝救い〟とは、きつい仕事から解放され、収入が増え、社会の一員と認められるようになることでしょうか?

 

もちろん、外側の暮らし向きが良くなるに越したことはありません。でも、1つ良くなれば、別の不満が生まれてくることもあります。生活を改善してくれるだけの政治的指導者が〝救い主〟ではないのです。人の問題は精神や心の問題も含みます。しかし、内面の問題はその人だけが悩み、努力すれば乗り越えられる訳ではありません。いや人間だけでは解決せず、神様に持ってゆく以外にないはずです。神様と関わる人間の一番深い問題を救うために、人間の眠っている間に、神様は働いておられました。それが、救い主の誕生が世間の目から隠されているようにみえる理由なのです。

2015年12月13日 礼拝説教要旨

恐れるな、マリアよ

政所 邦明 牧師

ルカによる福音書 第1章26-38節

 

 

 主題聖句:「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」

       ルカによる福音書第1章38

  

神の独り子イエス様のお誕生を祝うクリスマスです。しかし、この方がどこで、だれからどのようにお生まれになるか、細かい経緯を知っている人はだれもいません。もちろん「乙女が身ごもって男の子を生む」とか「ユダヤの地方ベツレヘムからイスラエルを治める者が出る」とかは預言書に書かれています。大筋はわかっていても、具体的には知らされてはおりません。神様がご計画を進められるからです。その出来事に出会う人々は、不意を打たれたようで戸惑うばかりでした。マリアもその一人です。

 

結婚もしていない若い田舎の娘が、男性の助けなしに、男の子を生むのです。しかも、その子は救い主だと天使は告げます。マリアにとっては心乱され、悩みを抱え込む事態となりました。自分の力ではどうしようもなくなって無力さを感じたに違いありません。確かにマリアの悩みは私たちと比べることのできない特別なものだったでしょう。それでも、わたしたちも人間の力ではどうにもならない問題を経験します。しかし、神様に全部をお任せしたために、「重荷でしかなかったものが、一変する」ことは信仰の世界でよくあることです。苦悩の中でこそ、神の恵みを知る機会が与えられる…その実例をマリアは証ししてくれました。

 

「お言葉どおりにこの身になりますように」を言い換ると、「神様のお望みになることであれば、わたしはどのような事でもいたします。」となります。条件を付けてはおりません。一切合切をお任せした時、解放される喜びがマリアの心に満ち溢れます。これがクリスマスの喜びなのです。

2015年12月6日 礼拝説教要旨

 

政所 邦明 牧師

 

命をささげるキリスト

 

マルコによる福音書 第10章35-45節

 

 

主題聖句: あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

                  マルコによる福音書第10章38節 

                                  

「エルサレムで、ご自分は引き渡され、捕まえられて殺される」と主イエス様は弟子たちに言われました。そして自分を捨て自分の十字架を背負って、従うように促されます。ところが弟子たちは主イエス様の願いを少しも理解しません。「自分たちの中でだれが一番偉いか」とか、「神の支配が完成する時、だれが序列で上位に着くか」とか…そんなことばかりに気にしているのです。出世に対する野心をむき出しにします。

 

そして主イエス様が十字架と復活とを予告されると、決まって、主の願いに逆らうように、欲望を口にし始めるのです。わざとではないでしょう。けれども、救われがたい人間の惨めな姿が隠しようもなく現れてしまいます。弟子たちだけの問題でしょうか?とても他人事とは思えません。

主イエス様から大切なことを聞かされます。けれども、自分自身の信仰生活を振り返れば、あんがい初歩的なところで失敗をしているのではないでしょうか。それは主イエス様のことを理解していないからです。わかっていたら恥ずかしい我欲を平気で口にしたりはしません。

 

主イエス様の言われた十字架の価値を私たちはなんと無意味にしていることでしょう。無意味どころか、実は十字架にこそほんとうの力があるのです。「多くの人の身代金としてご自分の命をささげる」(45節)と主イエス様は言われました。十字架に無類の価値を見出す時、私たちは本当に恥じ入り、悔い改めに導かれます。そして服従への道を歩み始めるのです。