2016年2月28日 礼拝説教要旨

十字架の上の主イエス様

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第15章33-41節

 

 主題聖句:「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

 マルコ福音書 第15章34

                                   

これまで「天のお父様、アッバ父よ」と、事あるごとに父なる神様に信頼をよせて祈ってこられた主イエス様です。いよいよ息を引き取られる前に「お見捨てになったのですか」と祈られたのはふつうではありません。口にされていた父なる神様への信頼はどこに行ったのでしょう。これまで人々に語ってこられたことを最後の祈りで、すっかりくつがえしてしまわれたのでしょうか。神様を恨むというより、絶望の淵に主イエス様が落ちておられる印象を持ちます。

 

この祈りは詩編第22編2節のことばそのままです。小さい時から詩編を口ずさみ、ご自分の祈りとされてきたのでしょう。み言葉が深く体に刻みつけられていて、ここぞという時、思わず口をついて出たのです。

 

ことばのうわべからだけ判断すれば、父なる神様と主イエス様との心のつながりは完全に断ち切られているように思われます。しかし、詩編の方は「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」(22編4節)と続くのです。信頼への告白まで捨ててはおりません。信頼と絶望とは一見矛盾するようでありながら、けっしてそうではないのです。

 

神様を信じ続けながらの絶望と、父なる神様を見限って叫ぶ絶望とは、たとえ絶望という言葉を使ったとしも、まったく違います。最後の最後まで信頼し抜かれる中で、神様から捨てられる凄まじい恐怖を一滴も残すことなく主イエス様は飲み尽くしてくださいました。その荘厳な有り様を見て「本当に、この人は神の子だった」(14:39)と百人隊長が言ったのです。

 

2016年2月21日 礼拝説教要旨

ゲツセマネの祈り

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:「…わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われまように

マルコ福音書 第14章36節

 

 

熱心に祈られる主イエス様のお姿を福音書は伝えています。ガリラヤで伝道をはじめられた頃、弟子たちから離れ、朝早くひとりで祈っておられました。(マルコ1:35,36)祈らなければ窒息してしまいます。主イエス様にとって祈りは身についたものです。まるで呼吸のようです。

 

主イエス様が父なる神様と、差し向かいになるのが祈りだと考えておりました。ところが、十字架を前にしてゲツセンマネという場所に行って主イエス様は祈られます。12弟子のうち3人を伴い、祈りの場に向かわれました。そばにいるようにと弟子たちに言われたのは、祈りで主イエス様を、支えるように期待されたのでしょう。

 

しかし、弟子たちは眠り込んでしまいます。わたしたちも含めた弟子たち、そして全人類の罪を背負うのがどれほど恐ろしいかを主イエス様は示してくださいました。罪のない神の子であっても、全身全霊を傾け、魂を絞りだすようにして、祈らなければ、とうてい全人類の罪を身代りに背負えるものではありません。主イエス様にとっても、とてつもない難事業だったのです。十字架の痛みが恐ろしいから、死を逃れさせてくださいと父なる神様にお願いされたのではなく、人間の底知れない罪の大きさにおののいておられるのです。それが主イエス様の恐れの意味なのです。

 

眠り込んで、祈りの応援には役にたたなかった弟子たちです。しかし、苦悩して祈られるお姿を見るだけでも幸いでした。主イエス様が復活された後、その祈りが罪人の救いのためであったと分かるようになるのです。

2016年2月14日 礼拝説教要旨

 葬りの備え

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第14章1-11節

主題聖句: 「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」 

マルコ福音書 第14章8節 

 

過越祭が近づいておりました。祭司長たちは主イエス様を殺そうと機会を狙っています。この方に危険が迫ります。緊迫さがじょじょに増していくのです。そのような祭りの近い食卓で、香油注ぎが起こりました。

 

一人の女性が、香油の壺を壊し、主イエス様の頭にその一部を注ぎかけます。だれも止める暇もなく、無言で、やり遂げました。壺からこぼれた香油が床のあたり一面に広がります。少しだけならともかく、こんなに多量であれば、芳しいはずの香油も、その匂いがかえって鼻を強く刺激したことでしょう。食卓にはふさわしくない異様な光景でした。

 

しかし、主イエス様はこの女のするとおりにさせられます。さらに、上記の最大級のお言葉をもってこの人をお褒めになりました。しゃべらなかったのに、行為によって、婦人は自分の信仰をよく物語ったのです。

 

フィリポ・カイサリアで「あなたは、メシアです」とペトロが主イエス様に告白して以来、3度も、ご自分の苦難と死、復活を弟子たちに予告してこられました。ところが、誠実に、その意味を弟子たちは受け取ろうとしません。どこか避けています。しかし、この婦人は十字架の死こそ、自分たちの救いに関わっていることを知っておりました。だから早々と自分の精一杯の感謝を十字架に向かおうとされる主イエス様に捧げたのです。

 

金や銀ではなく、ご自分の血をもって救ってくださった主イエス様の死(埋葬)に、ほかのなにものにも代えがたい大きな価値をこの婦人は見出しました。だからこそ、そのご愛にできるかぎり応えようとしたのです。

2016年2月7日 礼拝説教要旨

神様からのすばらしい応え

政所 邦明 牧師

マタイによる福音書 第5章10-12節

主題聖句: 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」 

    

 マタイによる福音書 第5章12

   

9つ目の祝福は次のものです。すなわち、主イエス様と共に生きて行こうとするなら、迫害が起こるというのです。罵られ、悪口を浴びせられます。しかし、その時でさえ、祝福の中におかれていると主は言われます。

 

心において貧しいとか、悲しむとかであれば、無理をしなくても自然の成り行きでそうなることはあるでしょう。しかし、憐れみ深い、心が清い、平和を実現する人々(7~9節)となると自分とは関係が薄い、立派な人と感じてしまいます。まして迫害を受けるほどの人は、もう別世界で、自分は及びもつかないと思わざるをえないのです。

 

今の日本では信仰のために殉教をする迫害は起こらないかもしれません。でも、キリスト信者というだけで白い目でみられたり、馬鹿にされたりすることはあるでしょう。いずれにしても、自分の落ち度ではなく、主イエス様の弟子であり、従っているという理由で迫害を受けるのです。

 

しかし、天での報い、つまり神様からくる報いを主イエス様は約束されました。生きている間は報いられないけれど、死後にご褒美をいただけるというのではありません。迫害の苦しみに耐えている今この時、祝福の中に生かされるのです。“天国はその人ものだ”つまり、神様がご支配なさる力が苦しみの中にある人をしっかりと捕えてくださいます。慰めや憐れみを受けたり、神を見、神の子と呼ばれたり(4~9節)しています。生きている間にもう神様からの報いを受けているのです。神様の報いの大きさを深く確信するところに、辛くても喜んで生きる力が与えられるのです。