2016年3月27日 イ-スタ-礼拝説教要旨

ペトロにも伝えよ

政所 邦明 牧師

マルコによる福音書 第16章1-8節

 

主題聖句: 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。…」

マルコによる福音書 第16章7節 

                                  

金曜日の夕方、十字架からおろされた主イエス様の体をきれいに拭き、香油を塗って葬りの準備を婦人たちはしたかったのです。けれどもその時は日暮れが迫り、十分な暇がありませんでした。安息日あけのよく日、日曜の朝、夜が明けるのを待ちかねたように、婦人たちはお墓にでかけます。

 

行ってみると、入り口を塞いでいた大きな石が脇に転がしてあり、墓の中が覗けました。ふつうではない気配を婦人たちは感じます。中には天使と思われる人物がいて、主イエスのお体がないのを示して、「主は甦られた」と告げるのです。そして男の弟子に伝言を頼みました。内容はこうです。「主イエス様は先にガリラヤに行って、あなたたちを待っておられる。行きさえすれば、お目にかかれる」その時、弟子たちとは区別するように、「ペトロ」の名前を天使は挙げました。「ペトロにもまた」、あるいは「そしてペトロにも」と訳せるのです。

 

婦人たちは、はじめ恐ろしくなって黙っていました。しかし、そのうちのひとりマグダラのマリアに甦られたイエス様は出会ってくださいます。もう男の弟子たちに黙っているわけにはゆきません。

 

男たちは聞いても信じません。その11人が食事をしている時、主は現れてくださいました。「ペトロにも」とわざわざ付け加えられたことをマリアはそのまま伝えたはずです。3度も知らないといったペトロは主イエス様に顔向けができないと思っていたでしょう。しかし、そのペトロにも主は出会ってくださいます。お忘れになることはけっしてなかったのです。

2016年3月20日 礼拝説教要旨

 恐れのない愛

政所 邦明 牧師

ヨハネの手紙一 第4章13-18節

主題聖句: 「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出す。」

ヨハネの手紙一 第4章18節

 

18節の少し前、第4章10節です。その箇所で、「罪を償ういけにえとして御子を(父である)神様がお遣わしになりました。“ここに愛があります”」とキッパリと言い切っています。その文脈において、18節の〝愛〟は主イエス様が命を捨ててわたしたちを滅びから救ってくださった愛と同じものです。そして、十字架を通して与えてくださった神様の愛の中には「恐れが存在しない。」と言っています。

 

神様の愛はまるで大きな家のようにたとえられています。その家の中には愛がいっぱい詰まっているのです。〝恐れ〟が外から入ろうとしても、愛が満ち満ちているのでつけいるスキを与えません。もし、恐れが、中にまぎれ込もうとするなら、すぐに外につまみ出されてしまいます。

今日は教会の暦では棕櫚(シュロ)の日曜日です。この日エルサレムに弟子たちと共に主イエス様が入られます。受難週が始まるのです。群衆は木の枝を打ち振って歓迎しました。おりしも過越祭が間近です。雰囲気に酔いしれ、よく考えもせず、人々はお祭り気分で、主イエス様を迎えただけかもしれません。罪を償うための呪いの十字架を背負おうとしておられることをどれほど理解していたでしょう。しかし、じっさい神様は罪人を救おうとなさいました。ここに愛が確かにあるのです。

 

その主イエス様の救いは〝恐れをまったく〟締めだしてしまいました。運命も罪の呪いも、自分すらも恐れる必要はありません。それなのになぜ恐れるのでしょう。“恐れはもうこれでおしまい!”決着はつきました。

2016年3月13日 安井弘子姉記

主はアブラムに仰せられた。

「あなたは、あなたのうまれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」           創世記12章1節

 

ブラジリア・アライアンス・キリスト宣教教会は、上記のみ言葉に示され、「出て」行った二宮睦子(現引退)宣教師の働きによって生まれた教会です。首都ブラジリアで唯一の日系教会で、開拓から今年で56年になります。同師は、日系人のみならずブラジル人伝道にも力を注ぎ、その実は現在3つの教会と3つの伝道所に引き継がれています。その後、ブラジルアライアンス教団が設立され、国内に約30の教会が存在しています。

 

この度、私共の宣教旅行は、ブラジルアライアンス教団から日本に派遣されている上田ルイス、ターニ宣教師夫妻の協力要請を受ける形で祈りが生まれ、主の導きにより7名のチームで訪日が実現に至りました。上田師の宣教地である関東では、有料老人ホーム等の訪問、教会でのダンスのワークショップ協力等を通し日本に住む日系ブラジル人の現実を垣間見、困難の中にも信仰を守り、次世代に継承させようと努力している姿に、同じ日系教会として励まされました。その後、名古屋、広島、四国の各教会に迎えて頂き、奉仕とお交わりの機会が与えられていることを感謝致します。

 

メンバーの中には日本が初めての者もいます。ブラジルとは異なる文化の中で述べ伝えられている福音と、主に在る交わりの素晴らしさを体験した一人一人が、これから自分自身の枠を「出て」主が示してくださる「地へ」従って行く者となることを自らも含めて願わされています。(安井記)

 

2016年3月6日 礼拝説教要旨

宣教に遣わす

 

政所 邦明 牧師

 

マタイによる福音書 第10章5-15節

 

 主題聖句:「病人をいやし、死者を生き返らせ、…悪霊を追い払いなさい。ただで受けのだから、ただで与えなさい。」

マタイによる福音書 第10章8

                                   

受難節に入り、十字架を目指して進まれる主イエス様のお姿をたどって礼拝してまいりました。マタイによる福音書第10章は12弟子を選び、主イエス様が宣教に遣わされる話が出てきます。受難とは直接関係ありません。福音書の記述の順番からみれば、はじめに戻ってしまうのです。

 

しかし、この箇所は主イエス様が与えてくださる〝救い〟について重要な側面を語っています。病気と死の苦しみにある人を解放する権能を弟子たちに授けられました。しかし、主イエス様はエルサレムで処刑されてしいまします。するとそれまで苦労して行ってきた宣教や奇跡などはすべて水の泡になってしまったのでしょうか。

 

そんなことはありません。重い皮膚病の人が清くされ、悪霊が追い出されるのは十字架によってすべての人の罪が赦される前触れなのです。表面からだけ軽々しく判断し、“癒しは良いしるし、十字架は忌まわしいしるし”と決めつけてはなりません。

 

この救いに対して、その価値と釣り合いのとれるお返しをわたしたちは神様に差し上げることはできません。一方的にいただく以外にないのです。またその価値をこの世の金銀など貨幣で換算もできません。傷のない主イエス様の命がささげられました。それを“ただで受けた”と言っているのです。粗品であれば、無料で配られることもあるでしょう。しかし、救いはとても高価です。いただいても〝それ相応の見返り、報い〟などできるはずがありません。わたしたちは「ただで受けるだけ」なのです。