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あゆみ

2016年6月26日 礼拝説教要旨

2016年6月26日

深き憐れみ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第1章40-45節

主題聖句:「イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった」 

マルコによる福音書1章41、42節

 

 

 今日は、重い皮膚病を患っていた人が、主イエスに自分の病気の清めをお願いして、清めていただいた出来事から、主イエスの御業を学びます。

 

彼の抱えていた病気は、重い皮膚病でした。体の皮膚の腫物、湿疹などの皮膚の疾患でした。当時、この病気の治療法がなくて、直るまで人々から離れて独りで住まなければなりませんでした。そのために、このような病気にかかった人は病気の苦しみや悲しみを抱えるだけでなく、仲間から隔離され、差別や軽蔑を受け、大変な悲惨な生活を強いられていたのです。

 

彼は、主イエスが近くに来られたことを知って、主イエスのところに行き、ひざまずいて「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」とひたすらお願いしたのです。ひざまずくという謙虚な態度ですが、主イエスがお望みになるならば、この私を必ず清めてくださると信じますと、堅く信じて願っているのです。

 

このひたすらな願いを聞かれた主イエスは深く憐れんで、手を指し伸べてその人に触れ」られました。「深く憐れんで」と訳される言葉は、はらわたのよじれるようなとも訳される言葉です。主イエスはこの人の苦しみに、ご自分の内臓が震えるような、痛みを感じるような憐れみを抱いて下さったのです。その愛と憐れみのゆえに、手を差し伸べてその人に触れてその人の痛みすら感じ取って、「わたしの心だ。清くなれ」と言って癒し、清めてくださいました。主イエス・キリストは、今も私たちの抱える罪のための苦しみをも、深い憐れみをもって清め癒してくださるお方なのです。

 

2016年6月26日 礼拝説教(音声)

2016年6月26日

2016年6月26日 日曜礼拝(動画)

2016年6月26日

2016年6月19日 日曜礼拝(動画)

2016年6月22日

2016年6月19日 礼拝説教要旨

2016年6月19日

 生きた水

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第4章3-26節

 主題聖句:わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」 

ヨハネによる福音書4章14節

 

 

 今日の箇所に出てくる人は、心の渇いた一人の女性です。彼女は誰もいない時間を見計らって、暑い真昼間に井戸に水を汲みにきたところ、そこに旅の疲れを覚えて、井戸のそばで休んでおられた主イエスがいました。

 

主イエスはサマリヤの女性に、何のためらいもなく、「水を飲ませてください」と頼んだので、彼女の方が驚いてしまいました。当時ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからです。でも、主イエスは、彼女に、このわたしがどういうものかを知ったら、あなたの方からその人に頼み、生きた水を受けるだろうと言われたので、彼女は、その水を下さいと求めました。

 

彼女は、その水は井戸からくみ出す水だろうと思いました。しかし、主イエスが与えようとされる水は、神様のいのちと愛です。神様のいのちと愛を受ける時、私たちのうちに泉のように流れ出して生きたものとするのです。

 

彼女が、その水を求め始めたとき、突然、主イエスは、彼女の個人的な生活の傷に触れられたのです。彼女が心傷つき、愛に飢え渇いていたことを主イエスは言い当てられたのです。

 

このとき、彼女は、主イエスに、どこに行ったら礼拝できるかを尋ねます。それは、彼女が礼拝を捧げたいと思ったことは、自分の傷ついた現実の問題を、神様の前に持ち出して、きよめていただきたいと思い、神を礼拝しなければならないと願ったのではないか。真の礼拝がどこで与えられるのか。それに対して、どこであろうと神の与えられる霊と真理をもって父を礼拝する時、いのちと愛に満ちた神との交わりができるようになると語られた。

 

2016年6月19日 日曜礼拝(音声)

2016年6月19日

2016年6月12日 礼拝説教要旨

2016年6月12日

 子供のように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章13-16節

 

主題聖句:「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

マルコによる福音書10章14節

 

主イエスの時代、一般の慣習として、著名なラビ(律法の教師)のもとに、親たちは、子供を連れて行って祝福を求めました。先生が、その子の頭に手を置いて祝福を祈ったのです。そのように、主イエスから祝福を頂こうとして、親たちが、自分の子供を主イエスのみもとに連れて来たのです。共に祝福にあずかろうとしたのです。

 

ところが、主イエスの弟子たちは、そのように主イエスに近づこうとする子供たちとその親たちを叱ったというのです。これ以上、主イエスに余分の苦労をさせないようにと、師に対する弟子の配慮であったのです。しかし、主イエスは、子供たちをご自分のところに近づかないようにしている弟子たちの姿をご覧になって、憤られたのです。

 

なぜ憤られたのでしょう。主イエスが、子どもを心から愛し、受け入れてくださるお方だからです。無力な者、無きに等しい者を選ばれる神様だからです。祝福を求めて近づくこの子供たちこそ神の国に入るべきだというのです。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われました。それは、子供は自分では生きていけないほどに小さい存在であり、神さまの愛なくしては生きていけないほどに弱い存在であるからです。私たちも、子供のように神様の愛を受け入れましょう。

 

2016年6月12日 日曜礼拝(音声)

2016年6月12日

2016年6月12日 日曜礼拝(動画)

2016年6月12日

2016年6月5日 礼拝説教要旨

2016年6月5日

新たに生まれる

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第3章1-15節

 

主題聖句:「イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とに

よって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

ヨハネによる福音書3章5節

 

ある夜、ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であったニコデモがイエスを訪ねて来ました。主イエスのなさっていることは、神からの不思議な力を受けておられる教師であるからだと認め、自分もそのようになりたいと求めてきたのです。

 

主イエスの答えは、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」というもので、ニコデモには不思議な言葉でした。彼は「新たに」の意味を、もう一度生まれることかと考えました。すると主イエスは、さらに説明されました。「人は水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」

 

主イエスの言われた「新たに生まれる」という意味は、人生を一からやり直すことや、母親の胎内に入り直すことでもないのです。水と霊とによって生まれることです。神の霊によって生まれることです。

 

神の霊は、風のように目に見えませんが、この霊が私たちに働きかけてくださるのです。この神の見えない御力によって生かされるのです。風の様に私たちに吹き込んで、私たちを生かし、いのちを与えて下さる。

 

人間は神によって生かされているのであるが、神と私たちとの交わりが切れてしまっていないだろうか。霊的な枯渇状態になっていないか。主イエスはニコデモに、あなたは霊的に渇いているよ、そのままにしておかないで、御霊によって新らたに生きるべきだと教え、救いの道に導かれたのです。

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