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あゆみ

2016年7月31日 礼拝説教要旨

2016年7月31日

良い羊飼いキリスト

三好 晴夫 牧師

ヨハネによる福音書 第10章11-18節

主題成句:「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

                  ヨハネによる福音書10章11節

 

 主イエスは、御自分のことを、「わたしは、よい羊飼いである。」と言われました。何と大胆な発言、何と思い切った発言でしょうか。

 

この「良い」という言葉は、「まことの」という意味です。「信頼に足る」という意味です。親身になって心配し、しっかりと守る信頼できるものだということです。では、どんな点で、主イエスはまことの羊飼い、信頼に足る羊飼いなのでしょうか。「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる。」と言われます。つまり、愛する羊の世話をし、その命を守るために、自分の命を捨てる。主イエスはそういう羊飼いであられるのです。

 

当時、自分の羊を持たない雇人がいました。雇われて、給金をもらって、そのためにだけ働く人でした。もし危険なことに直面すると、羊を置いて逃げ出してしまいます。それは、羊のことをあまり心にかけていないからです。羊よりも自分の命や生活が大事だと思っているからです。その雇人が逃げてしまったら、羊は危険な目に遭い、悲惨な状態になってしまいます。しかし、本当に羊のことを心にかけている羊飼いは、羊が困ったことになったとき、親身になって命がけで守ります。

 

羊が自分勝手に迷い込んでしまうことがあるように、私たちも、神様から離れて、自分勝手に進み、迷子の状態になり、危険なことになっていました。そんな私たちを、まことの羊飼いは決して見捨てられません。一緒に苦しみ、捜し続けてくださいます。私たちを救い出すために、自ら進んで十字架にかかって死んでくださり、わたしたちに命を与えて下さいました。ご自分の命を捨てられるのは主イエス・キリストだけです。

 

2016年7月31日 日曜礼拝(音声)

2016年7月31日

2016年7月31日 日曜礼拝(動画)

2016年7月31日

2016年7月24日 礼拝説教要旨

2016年7月25日

 もう泣かなくともよい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章11-17節

主題聖句:「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。」

                    ルカによる福音書7章13節

 

 

今日は、ナインという町に住むやもめに注目します。ある日、主イエスと弟子たち一行がナインの町の門に近づかれたとき、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、その棺が担ぎ出されるところでした。

 

主イエスは、その母親をご覧になりました。その時、主イエスは、この母親の悲しむ姿と共に、彼女の心の苦しみをも見られたのです。先に夫に先立たれ、残された一人息子も死んでしまい、一人ぼっちになってしまい、女一人でどう生活していくべきか途方に暮れていました。こんな状況の母親に町の人たちは、じっと寄り添っていました。

 

「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。深い悲しみが母親を支配しています。主イエスはじっと彼女を深く憐れまれたのです。「憐れむ」という言葉は、はらわたがよじれるほどに深く同情するという意味です。その思いをもって、もう泣かなくともよいと語られました。今悲しみで一杯でしょうが、もう泣き続けなくてもよいです。主イエスは深い同情心を示されただけでなく、その悲しみを担ってくださいました。近づいて、棺に触れられると、死んでいた息子に「起きなさい」と声をかけ、息子を母親にお返しになったのです。死んでいた息子を生き返らせて返されました。このような驚くべき御業を救い主イエスが行われたのです。主イエスは私たちのために十字架で死なれ死より復活されましたから、いのちの恵みを下さいます。

 

2016年7月24日 日曜礼拝(音声)

2016年7月25日

2016年7月24日 日曜礼拝(動画)

2016年7月25日

2016年7月17日 礼拝説教要旨

2016年7月17日

 ただ、お言葉を下さい

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第7章1-10節

 

主題聖句:「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」

                    ルカによる福音書7章7節

 

 

今日は、百人隊長の信仰に注目します。カファルナウムの町に主イエスが入られたと聞いて、百人隊長は、自分の部下の重い病気の問題の解決を主イエスにお願いしました。

 

その願いを主イエスは引き受けて、百人隊長の家に向かわれたのですが、彼は自分の家にお迎えするのを断りました。自分は非常に小さな者ゆえ、偉大な方を自分の家に迎える資格はないと思ったからでした。それで、彼は主イエスに「ひと言おっしゃってください」と願いました。

 

この申し出に、彼の信仰が表されています。主イエスが、わざわざ自分の家に来られて、病気に苦しむ部下の枕元で、直接その体に触れていただかなくても、主イエスから権威に満ちた御言葉を与えていただくならば、その言葉によって自分の僕は癒されるとの信仰の表明をしているのです。それは、彼が主イエスは権威に満ちたお方であり、その語られる言葉に権威と力があるゆえに、御業がなされると信じたからです。

 

なぜそんなことを彼は信じたのでしょうか。その理由は、百人隊長自身、王から授けられた権威を持つゆえに、部下に命令すれば部下は従うということを経験していたからです。しかも主イエスの持つ権威は自分よりはるかに大きいと認めたからです。私たちも百人隊長の信じたように、主イエスの言葉に権威があると信じてお願いしてみましょう。

 

2016年7月17日 日曜礼拝(音声)

2016年7月17日

2016年7月17日 日曜礼拝(動画)

2016年7月17日

2016年7月10日 礼拝説教要旨

2016年7月10日

罪人を招くイエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第2章13-17節

 

主題聖句:「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

                  マルコによる福音書2章17節

 

  自分が健康なときには、医者が必要だとは思いません。しかし、医者を必要とする時があります。自分が病気であると自覚する時です。自分が病気と知ったら、病気を直してもらいたくて医者を求めます。

 

しかし、私たちは自分の健康に敏感ではありません。自分が病気の症状があっても、どんなにしんどくても、病気と気づかず、医者を必要と思わないところがあります。

 

それと同じように、私たちは、霊的な病気と言われる、自分の罪に気づいていないのではないでしょうか。私たちを愛し、導いて下さる神から離れてしまい、自分勝手な生き方をしていることに気づいていないのではないでしょうか。罪深い症状があったとしても、自分は問題ないと思ってしまうことがあるのではないでしょうか。自分の問題に気づかないために、自分の魂の医者、すなわち、救い主キリストが必要だということも気づいていないことがあるのではないしょうか。実は、主イエスを知らなかった時の、私たちはそんな状態にあったものです。

 

主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。主イエスが来られたのは、自分が正しい、汚れていないと思っている人を救うためではなく、自分は、罪があると思っている人を見つけ出して救うために来て下さったのです。

 

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