2016年10月30日 礼拝説教要旨

 はっきり見える

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第8章22-26節

主題聖句:「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」

                   マルコによる福音書第825

                   

 

 私たちは、霊的に盲目な状態にあります。そんな私たちの霊的な目が開かれ、見えるようになるように、イエスご自身がメシア(救い主)と分かるように、主イエスは導かれるお方です。そのことを、主イエスは、今日の箇所で、一人の盲人が、主イエスの御業にあずかって、目が開かれ、はっきり見えるようになった出来事を通して、示しておられます。

 

この盲人と主イエスが出会う前、主イエスと弟子たちは舟の中でした。その時、弟子たちはパン一つしか持って来なかったことを気にしていました。でも主イエスはそれを気にしておられるではなく、不信仰にならないように、今ここにすべてを与える主イエスがいることを悟ってほしかったのです。でも、このとき、弟子たちは悟っていなかったのです。

 

そんな彼ら弟子たちが、主イエスが救い主であることを正しく理解できるように、盲人の目を癒される御業をお見せになったのです。

 

主イエスと弟子たちがベトサイダに着いた時、人々が一人の盲人をみもとに連れて来て、触れていただきたいとお願いしました。すると、主イエスはその盲人を深く憐れみ、その盲人の手を取って、村の外に連れ出されました。そこで、その人をしっかりと見つめられ、彼の両目に唾をつけ、ご自身の両手を置かれました。彼の反応を確かめながら、御業をなさり、はっきり見えるようになりました。この御業を間近で見た弟子たちも、このようになさる方が誰なのか、よりはっきりと分かるように導かれました。この方が、救い主と正しく理解できるように導かれたのです。主が触れて導かれたのです。

2016年10月23日 礼拝説教要旨

 開 け

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第7章31-37節

主題聖句:「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、「開け」という意味である。」

                   マルコによる福音書第734

                   

 

  今日、耳が聞こえず舌の回らない人と、主イエスとの出会いを見つめます。主イエスがガリラヤに戻って来られたとき、人々は、耳の聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように願いました。その人々は、困って苦しんでいるその人を何とか助けたいと思い、主イエスにお願いすれば、何かしていただけるのではないかと思ったのです。

 

すると、主イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、指を彼の両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられました。主イエスは、その人の苦しみを、ご自分の身体にくっつけるように触ってくださったのです。そして、「天を仰いで」すなわち、天の父なる神様を見上げて、天からの力を願う祈りをされたのです。「深く息をつき」すなわち、呻かれたのです。主イエスは、ご自分を、耳が聞こえない人の立場に身を置かれ、その苦しみを自らの苦しみとして呻かれたのです。このことは、主イエスは、この人の癒しを行うのに、抱える困難と激しく闘って全力を投入して成し遂げられたことを示しています。

 

そして主イエスは「その人に向かって、『エッファッタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」。すると、彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになったのです。

 

この出来事を知った人々は驚き、神を賛美しました。それは、預言者イザヤの預言である「聞こえない人の耳が開く、口のきけなかった人が喜び歌う」ことが、その通り、この主イエスにおいて、実現したからです。

2016年10月16日 礼拝説教要旨

 

 安心しなさい。わたしだ。

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第14章22-33節

主題聖句:「イエスはすぐ彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』」                  

  マタイによる福音書第1427

                   

 

  自分としてはひたすら努力しているのに、前に進まずどうにもできない事態に出くわすことがあるのではないでしょうか。今読みます聖書の箇所の弟子たちも、自分の力ではどうにもできない状況に出くわしたのです。それをどう乗り越えたのか、どう助けられたのかを見ていきたい。

 

弟子たちは、主イエスに強いられて、自分たちだけで舟に乗って向こう岸に向かうように指示され、ガリラヤ湖を渡り始めていました。主イエスは一人になって山で祈りの時を持たれていました。そんな時、突然、逆風が襲ってきて、舟は前に進めなくなり、強風に吹き戻される状態になりました。

 

そんな状態が夜明け前(午前3時ごろ)まで続きました。弟子たちはどんな気持ちで、何とかしようともがき苦しんでいたのでしょうか。そんな時に、何かわからないのですが、白い物体が自分たちの方に近づいてきたのです。それは湖の上を歩いてどんどん近づいてきます。彼らはそれを恐怖と感じ、思わず幽霊だと叫びました。まさにその時、白い物体から力強い声がかかりました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

声の主は、自分たちを導いてくださっているあの主イエスその方でした。主イエスが、自分たちを助けるために来て下さったのです。「わたしだ」と言われた主イエスが、共にいてくださるのです。そうと分かって恐れから安心に変わりました。私たちの人生にも、前に進めなく行き詰まりを覚えて、もがき苦しむことがあります。そんな時、弟子たちと同じように、恐れや不安と不信仰に陥ってしまうかもしれません。そういう私たちに、主イエスは近づいてくださり、安心しなさい、わたしが共にいると呼びかけて下さいます。

2016年10月9日 礼拝説教要旨

 いのちを養われる主

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第6章30-44節

主題聖句:「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。」   

    マルコによる福音書第641 42

                   

   今日の箇所には、男だけで5千人の人々が、五つのパンと二匹の魚によって、満腹になったという奇跡が記されています。このパンの奇跡は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのどの福音書にも記されているということは、弟子たちにとってよほど忘れがたい出来事であったということです。

 

主イエスと弟子たちが舟から陸に上がろうとした時、目の前に大勢の群衆が主イエスのところに集まって来ました。その姿を見た主イエスは、彼らが、飼い主のいない羊のように、それまで自分たちを導いていた指導者を失って悩んでいることを知って、深く憐れまれ、彼らに、色々と教えられました。

 

もう時間もだいぶ経っていった時、弟子たちは、このままなら人々が食べるものが必要となると思い、主イエスに、解散させて、自分たちで食べる物を買いに行くように命じてくださいと進言しました。ところが、主イエスは、弟子たちに、あなたがたが、彼らに食べるのを与えなさいと言われたのです。弟子たちは、自分たちにはそんなことはできないと思いました。そこで、主イエスは、弟子たちに、パンがいくらあるか、見て来なさいと命じ、彼らは確認して回ったところ、パン5つ、魚2匹とわかりました。弟子たちはこんなわずかなものなら、とても人々には足らないと思いました。

 

しかし、主イエスは自ら弟子たちに指示を与えて、人々に座らせ、そのパンを受け取って天を仰いで祈り、パンを裂いて弟子たちに渡して配られると、皆食べて満腹したのです。この出来事は、主イエスこそ、人々のいのちを養われるお方であることを示しました。主イエスは私たちをも養われる。