2017年2月26日 「盾(たて)」小島誠志師記

 

盾(たて)

 

            あなたはわたしの盾、わたしの栄え。

        詩編 3編 4節

 

神は、槍や刀や弓矢のような斗う武器である、とは言

われていません。逆にそれらの武器の攻撃を防ぐ「 盾 」

と呼ばれているのです。

神の民は敵の攻撃にさらされていますが、そのさ中で

彼らを守り抜くことによって神は御自身の「栄え」(栄光)

を見せてくださるのです。

「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに

羊を送り込むようなものだ」(マタイ10章16節)

羊が、羊飼いに守られながら 狼の群れの中を歩き通す

ことが、信仰の証になるのです。

 

(小島誠志師 記)

 

2017年2月19日 礼拝説教要旨

何をしてほしいのか

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章46-52節

主題聖句:イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。  

マルコによる福音書1051

 

主イエスは、エリコを出て、いよいよ都エルサレムに向かって進もうとされたとき、その道で盲人のバルティマイが物ごいをしていました。彼はナザレのイエスと知って「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けたのです。イエスを「ダビデの子」と言ったのは、昔ダビデ王に約束された、ダビデの子孫から救い主が起こされ、ユダヤを救ってくださるとの約束を信じたからです。彼は、イエスを、約束の救い主と信じて、このように叫び、憐れんでくださいと懇願したのです。

 

その必死な叫びが主イエスに届き、彼は呼ばれました。彼は上着を脱ぎ捨て、主イエスの所に来たら、主イエスから「何をしてほしいのか」と問われました。その時、彼ははっきりと「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。彼は、長い間目が見えない状態が続くうちにもう不可能かと思っていたでしょう。でも目が見えるようになりたいという願いを、今、主イエスに求めたのです。主イエスをまことのメシアと信じてお願いしたのです。その願いは、目が見えるようになったらそれでいいと言うことではなかったはずです。目が見えるようになって、目の前におられる憐れみ深い主イエスを見て、ついて行きたいということでありました。

 

主イエスは、彼の目を見えるようにして下さいました。私たちも主イエスを見せてください、救って下さいと祈るなら、そうしてくださるのです。

2017年2月12日 礼拝説教要旨

仕えるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章32-45節

 

「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり…なさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」  

マルコによる福音書104445

 

主イエスは、十字架への道に向かうにあたり、弟子たちに覚えてほしいと望まれ、従う者のあるべき姿を語られました。それが42節以下の言葉です。これは今日の主イエスに信頼する私たちへの教えでもあります。

 

この世の支配者や権力者は力づくで人々を支配し、従わせています。しかし、「あなたがたの間」すなわち、主イエスを信頼し従う者の集いの中では、それと同じではないです。むしろ、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と教えられました。

         

 仕えるとは、人のために給仕することです。ですから、イエスに信頼し従う者は、自分自身を、ごく小さな者、取るに足りない者と考えて謙遜になり、他の人の言葉に耳を傾け、人を進んで助けることをしなさいと教えられたのです。

 

そうすべき理由は、キリストが仕えられたからです。神の御子という栄光に富んだ方が、人に仕えるために来られ、事実人に仕えられ、さらに、多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来られたからです。多くの人々が、自らの罪を背負って苦しんでいるのを救い出すために、キリストが自ら進んでご自分の命をささげてくださったのです。このキリストの愛と救いの恵みのゆえに、互いに仕え合う者とされなければならない。

 

2017年2月5日 礼拝説教要旨

永遠の命を受け継ぐには

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章17-27節

主題聖句: イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

           マルコによる福音書1021

 

 ここに自分の生活に満足できず、魂の飢え、心の渇きの様なものを感じていた青年がいます。彼は主イエスが自分の町に来られたと聞き、走り寄って主イエスの前にひざまずいて尋ねました。「尊い先生。永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか。」何か切羽詰まった真剣な求めです。何かもっと良いことをしなければ、と切実に主イエスに求めました。

 

主イエスの答えは、神に注目し、神と交わり、神の戒めを守ることでした。それは彼らには常識的な答えと感じ、彼は、それは守っていますと答えました。すると、その青年の答えを聞かれた主イエスは、彼を見つめ、慈しまれ、上記の御言葉を語られました。この言葉は、厳しい命令です。でも、誰にでもこのような厳しい道を命じられたわけではありません。この青年にとっては、彼の心を妨げているものが、財産だと見抜かれた主イエスの愛からの命令でした。

 

永遠の命は、神との本当の関係に入ることであり、神の本当の平安です。神に信頼し、神に従うことによって与えられるものです。だから、神に信頼することを妨げるものを捨てなければなりません。だから主イエスは彼には自分の財産をささげて主イエスに従うことを求められたのです。従うことが難しいが、主イエスは、ためらう者をも愛し導いて下さる方です。