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あゆみ

2017年4月30日 礼拝説教要旨

2017年4月30日

ぶどう園のたとえ

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第12章1-12節

主題聖句:まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。

 マルコによる福音書166

 

 ユダヤの指導者たちが主イエスに向かって、何の権威で、その教えやその働きをするのか、だれがそのような権威を与えたのか、と尋ねました。それに対する答えを、主イエスはたとえによって示されました。

 

そのたとえが、マルコ12:1~11です。「ある人」は父なる神を表し、「農夫たち」は神の民イスラエルを表しています。イスラエルの民は神から良く準備された素晴らしい環境を与えられ、よく世話をすることを期待されていました。時が経ち、神に収穫をささげるべきとき、イスラエルの民は神から遣わされた預言者たちを侮辱し、殺してしまいました。イスラエルの民は神を忘れ、神の言葉を退け、自分が主人となろうとしたのです。

 

そういう侮辱を受けてもなお神はイスラエルの民に働きかけられます。最後に愛する息子を送るのです。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と誠意をもって彼らを信頼し期待して愛する息子を送り出すのです。彼らが神を敬ってくれることを願っての行動です。

 

しかし、たとえでは「農夫たち」はその神の思いをあざ笑うかのようにその息子を殺してしまいます。このたとえは神の御子イエスを殺してしまうことを暗示していました。けれども神はこの殺された息子の死と復活をもって、救いを成し遂げられるのです。人の目には不思議な御業です。

 

2017年4月30日 日曜礼拝(音声)

2017年4月30日

2017年4月30日 日曜礼拝(動画)

2017年4月30日

2017年4月23日 礼拝説教要旨

2017年4月23日

聞いて信じる

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章5-11節

 

主題聖句:その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 マルコによる福音書1614

 

 

 主イエスはむごい十字架にかけられて確かに死なれ、そのお体は十字架から降ろされて墓に納められました。その事実に、彼ら弟子たちは全く気力を失っていました。週の初めの日の朝早く、墓にいた女性の弟子たちが、墓の中で、天使と思われる若者から「あの方は復活なさって、ここにはおられません。」と言われて、震え上がって恐れるばかりでした。天使の言葉を聞いても信じられなかったのです。

 

その日、復活された主イエスは、マグダラのマリアにご自身を現されました。その復活された主イエスの姿を見たマリアは主イエスが復活されたと認め、その喜びを仲間に伝えました。しかし、仲間たちは彼女の伝えることを聞いても信じることができませんでした。

 

その後、11人の弟子たちが食事をしている時、復活された主イエスがその場に現れ、彼らの不信仰とかたくなな心をとがめられたのです。主イエスは彼らに、復活を目撃した人々の証言を聞いて信じることを願っておられたからです。しかし、復活された主イエスは、その彼らに、福音の宣教を託されたのです。それは、復活の主イエスから聞いて信じて教えられた者が、皆に伝えてほしいからです。聞いて信じることが大切なのです。

2017年4月23日 日曜礼拝(音声)

2017年4月23日

2017年4月23日 日曜礼拝(動画)

2017年4月23日

2017年4月16日 日曜礼拝(音声)

2017年4月20日

2017年4月16日 礼拝説教要旨

2017年4月16日

あの方は復活なさった

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第16章1-8節

 

主題聖句:若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。

  マルコによる福音書166

 

  主イエス・キリストは十字架にかけられて確かに死なれました。そしてそのお体は十字架から降ろされて岩で掘って作った墓に納められ、そのまま安息日が始まりました。そして安息日が終わって週の初めの日の朝早く、女性の弟子たちは待ちかねたようにイエスの墓に急ぎました。行って見ると、入り口をふさいでいた大きな石はわきに転がしてあり、墓の中をのぞくことができました。中に入ると、驚くことに墓の中には天使と思われる若者がいて、彼女たちに「あの方は復活なさって、ここにはおられません。御覧なさい。お納めした場所である。」と語ったのです。イエスのお体が墓の中にないことを示し、それは主イエスが復活なさったからだと告げたのです。神の御業によって復活が起こったのだというのです。

 

さらに弟子たちとペテロとに伝言を託されました。「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」弟子のペテロは主イエスが捕らえられたとき、主イエスを3度も否認してしまい、裏切ったことで随分苦しみ悩んでいました。そのペテロを、神はなおも信頼し、期待し、ガリラヤでお目にかかるというのです。その弱い者に復活された主イエスが現れて励ましを与えて下さるのです。

 

2017年4月16日 日曜礼拝(動画)

2017年4月16日

2017年4月9日 礼拝説教要旨

2017年4月9日

十字架上の主イエス

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第15章21-39節

 

主題聖句:三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。      

 マルコによる福音書1534

 

 主イエスは人々に神の愛を伝え、人々の病を癒した救い主であり、何の罪も犯していない方なのに、自らをユダヤ人の王と主張して人々を惑わしたと人々から訴えられて、裁判で十字架につけられることが決まり、遂に十字架につけられてしまいました。その裁判の時も十字架の時も、主イエスは何の弁解もせず黙ってその苦しみを耐え続けられました。

 

昼12時になったとき、全地が暗くなり、それが三時まで続き、三時になったとき、主イエスは大声で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。この叫びは神に向かっての叫ぶような祈りです。ご自分の死が間近に迫っている中で、死の恐ろしさを思い、ご自分が神から見捨てられたと感じられたのだと思われます。

 

見捨てられること、神から見捨てられることは大変恐ろしいことです。

 

主イエスが神から見捨てられたのは、実は私たち人間の罪を受けとめられて、人間の負うべき罪の大きさを感じられたからです。使徒パウロはそのことをこう説明します。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(Ⅱコリント5:21)神のご計画によって、私たちを罪から救うために、罪のないイエスを十字架につけられ、私たちの身代わりに裁かれ、見捨てられてくださったのです。

 

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