2018年3月25日 礼拝説教要旨

御心が行われますように

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第14章32-42節

 

主題聖句:こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

                      マルコによる福音書 第14章36節

 

主イエスは弟子たちと過越の食事を終えて、ゲッセマネの園に行き、祈りの時を持たれました。ここに来て、主イエスはひどく恐れてもだえ始めておられるのです。地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように祈り始められたのです。

 

主イエスが今経験しておられる、苦しみはどのようなものだったのでしょうか。その時の弟子たちには、分からないことでした。当然私たちにも分からない事ですけれども、主イエスの語られた言葉や態度から推察してみたいと思います。主イエスが父なる神に「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られています。「この杯」とは、これから主イエスが飲もうとしていた杯です。それは、主イエスがではなく、私たち人間がその犯した罪の結果として受けなければならない神の裁きのことです。その裁きは人間が受けるべきものなのに、神は、人間にではなく、主イエスに身代わりに負わせようとしておられるのです。それが神の御心であったのです。御心と分かってはいても、主イエスはその裁きを目の当たりして、恐れ、取り去ってくださいと祈られたのです。霊的な闘いを経験して、ついにご自分が神の裁きを受けることを神の御心と受け止めて、主イエスは十字架に進んでいかれるのです。

 

2018年3月18日 礼拝説教要旨

仕えるキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第10章32-45節

 

主題聖句:一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。

                      マルコによる福音書 第10章32節

 

主イエスは都エルサレムに向かわれます。しかも、先頭に立って毅然とした態度で進んでおられました。それは、弟子たちには、驚きであり、従う者には恐ろしいことでした。主イエスの語る内容からして、エルサレムに行くことは非常に危険なこととは思っていたようです。

 

主イエスは、武力的なメシアとして、戦う集団としてエルサレムに向かおうとしておられるのではありません。戦う支度もないままエルサレムに向かっていく姿に、弟子たちも従う者たちも驚き、恐れています。

 

そして、主イエスは三度目となる苦難と死と復活の予告をされました。より具体的に、宗教指導者たちに引き渡されて、死刑の宣告を受け、異邦人からは侮辱され、鞭打たれ、殺されるとまで語られました。しかし、弟子たちが思い描いていたのは、主イエスはエルサレムで栄光を受けられるに違いないから、その時、自分たちをそれに次ぐ地位に置いてほしいという願いでした。彼らには、なぜ主イエスがエルサレムに行くのか分かっていないのです。

 

主イエスに従う道にはこの世の栄光、栄誉はない。主イエスに従う者は、主イエスと共に苦しみを経験しなければならないことがあるが、その先に、救いがある、と主イエスは示されるのです。主イエスは、多くの人々の身代金として自分の命を献げていかれるのです。

 

2018年3月11日 礼拝説教要旨

栄光に輝くキリスト

三好 晴夫 牧師

マルコによる福音書 第9章2-10節

 

主題聖句:六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

                        マルコによる福音書 第9章2節

 

私たちの生活を振り返ると、平々凡々、さほど代わり映えのしない生活をしています。そんな私たちには、今日の箇所にある、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き」ことは驚くべき出来事です。私たちがもしそのような光景を見たら、驚いて肝をつぶすことでしょう。

イエスの姿が「変わった」とは、今までとは外観と共に内面も変わったという意味です。今まで弟子たちが見ていた主イエスのお姿とは、全く別のものになったということです。このように、主イエスが光輝かれたその姿は、地上に人間としてお生まれになる前に、天の父なる神様と一緒におられて持っておられた栄光と言われます。神の御子としての栄光です。また、この姿は、主イエスが十字架につけられ、葬られた後、神の御力によって復活されたその復活の姿とも言われます。

 

山の上で主イエスが栄光の姿に変えられた時、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れて、3人で話し合われたのは、主イエスが成し遂げようとされる十字架の苦難についてでした。その時雲が現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と言う声がありました。苦難の道に進む主イエスを受入れる父の声でした。このイエスに聞くべきなのです。