2019年2月24日 礼拝説教要旨

 いやすキリスト

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第5章12-26節

 

    主題聖句: イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」

と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。

ルカによる福音書 第5章13節

        

 

 私たちが病気にかかることがあります。自分だけでなく、愛する家族がそうなる場合もあります。そんなとき、休むことが大切です。適切な医師の診断と治療を受けて回復することがあります。そういう時こそ、私たちの心も身体も、創造主なる神によって造られ、支えられていることを覚えたい。神は私たちのことを心配され、守っておられます。その神にこの自分を癒やし回復して頂けるように祈ることができることは幸いです。神の憐れみのみ手が働く時、回復されます。憐れみ深い神は私たちの祈りを聞いて癒してくださいます。

 

今日の聖書箇所の、重い皮膚病を患っていた人は、その病気のゆえの苦しみや辛さを持っていたでしょう。さらに、病気による汚れもあり、人から離れて宿営の外で生活しなければなりませんでした。自分が汚れていると言って、人々を近づけないようにする規定に従わなければなりませんでした。でも、この人はその規定を破って主イエスに近づき清めを求めたのです。ひれ伏して主よ、お心ならば、わたしを清くすることができますとお願いしたのです。その切実な願いに、主イエスは進んで彼に手を差し伸べ、触れ、「わたしの心だ清くなれ」と宣言されその病が癒やされたのです。主イエスがお心をとめられる時、癒されるのです。

2019年2月17日 礼拝説教要旨

 御言葉を聞く

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第8章4-15節

 

主題聖句:イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが

許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。     

ルカによる福音書 第8章10節

        

 主イエスは人々に神の国を宣べ伝えられる時、よく、たとえを用いて話されました。そのたとえ話の一つが今日の箇所にある、種を蒔く者が種を蒔いたという話です。その種を蒔く人が種を蒔いたところ、ある種は道端に、ある種は石地に、ある種はいばらの中に、ある種は良い土地に落ちました。それらの種はその後どうなったかを主イエスは話されたのでした。

 

この話が終った後、弟子たちはこのたとえの意味を主イエスに尋ねたのです。その時、主イエスは答えられたのが上記の言葉でした。神の国の秘密は他の人々には理解するのは難しいのでたとえで語られるのです。しかし、主イエスを信じるあなたがたには、神の国の秘密を悟ることが許されていると言われました。あなたがたには神がその秘密が分かるように明らかにしてくださるというのです。

 

そして彼らにこのたとえの意味を教えられました。種を蒔く者の蒔く種が、どのような土地に蒔くかによってその後の成長が違って来る。種とは、神の言葉であり、主イエスの伝える神の言葉を人がどのような心で聞いていくかによって違って来るというのです。主の語られる恵みの言葉を「立派な善い心で」信じて聞く時、実を結ぶのです。

 

2019年2月10日 礼拝背説教要旨

 安息日の主

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第6章1-11節

 

主題聖句:そして、彼らに言われた。「人の子は安息日の主である。」。     

ルカによる福音書 第6章5節

        

 今日キリスト教会は、日曜日を安息日として、仕事を離れて教会に集い礼拝をささげています。それは、日曜日の朝、主イエスが死人の中からよみがえられたからです。

 

しかし、安息日は元々旧約聖書の時代に神がイスラエルの民に守るように定められたもので、土曜日でした。その戒めは、六日の間働いて、七日目は主の安息日であるからいかなる仕事もしてはならないというものでした。それゆえ、イスラエルの民はそれを守り続けていました。しかも、きちんとした形で守ろうとするあまり、更に細かな規定を加えて行きました。そのために、色んな問題が起きていました。

 

その一つが、今日の聖書箇所にあることです。ある安息日に主イエスと弟子たちが麦畑を歩いているとき、弟子たちが麦畑の穂を摘んで手でもみ出して食べたのです。それを見たユダヤ宗教指導者は問題にしたのです。彼らの言い分は、麦の穂を摘み、それをもみ出すことは労働であるのに、あなたたちは安息日に仕事をしている、けしからんと主イエスに向けて非難したのです。その訴えに対して、主イエスは答えられました。旧約のダビデは王ということで特別に律法を超えて特別のパンを食べることが許された。そのように人の子イエスは弟子たちに安息日に麦の穂を摘むことを許したのだ。人の子は安息の主であると宣言された。

 

2019年2月3日 礼拝説教要旨

 新しいぶどう酒は新しい革袋に

三好 晴夫 牧師

ルカによる福音書 第5章33-39節

 

 

主題聖句:新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。     

ルカによる福音書 第5章38節

        

 

 周囲の人たちから見れば、キリスト者の信仰生活には、祈りが足りない、慎み深さがないと思われているところがあるのかもしれません。

 

主イエスが、罪人と言われている人たちを招いて弟子とされ、彼らと一緒に食事をしているときに、ユダヤ教の指導者たちから厳しい苦言がありました。あなたがたは断食や祈りをしない、食べたりばかりだと。

 

主イエスはその非難に対して、花婿が一緒にいる婚礼の客はその時にはその祝いのゆえに断食をしない。そのように花婿であるイエスと一緒にいる弟子たちはその喜びゆえに断食をしない。でも、花婿が奪い去られると悲しみのあまり断食することになる。

 

そう答えられたあと、さらにたとえを持って「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる」と語られました。

 

このたとえの古い革袋は古いユダヤ教の生活、新しいぶどう酒は主イエスの新しい教え、新しい命の喜びであり、新しい革袋は主イエスの教えに基づく生活を示しています。もし人がユダヤ教の古い伝統の生活に固執しその中に主イエスの教えを入れると、入れ物も中身も両方が駄目になる。新しいぶどう酒である主イエスの福音の喜びは命があふれているので、主イエスをそのまま信じて受け入れるべきなのです。