2020年8月30日 礼拝説教要旨

 霊による心の割礼

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章17-29節

 

主題聖句:内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。

                               ローマの信徒への手紙 第2章29節

 

自らを正しい人間だと自信を持っている人にも、罪がある、神に悔い改める必要があると、教えているところを学びます。ローマ2章17節以下で、ユダヤ人に向けてあなたは自らをユダヤ人と称し、律法(神の契約として与えられた戒め)を持っていることに頼り、神との特別な関係にあり、自分は神の御意志をわきまえていると自負していました。それゆえ、他人に律法を教えていくのですが、自分はその教えを守っていなかったのです。そういう他人に厳しく自らに甘い態度の姿を、パウロは鋭く指摘します。

 

また、彼らユダヤ人は律法(神の御意志を示す戒め)を持っていることと共に、割礼を受けていることを、神の民であるしるしと誇っていました。割礼は、男性の生殖器の包皮を切って取り除く儀式です。この割礼を受けていることを彼らは神の民のしるしだと自負していたのです。

 

しかし、パウロは言います。割礼が有効になるのは、割礼を受けていること自体ではなく、律法を行うことにある。律法を守っていないならば、割礼には意味がない。だから、外見上の割礼は割礼ではない。むしろ、霊によって心に施された割礼こそ割礼であると言うのです。肉体に割礼のしるしを持たなくても、主イエスの十字架の恵みに触れて生まれ変わって新しい心が与えられたものが、心に割礼を受けた者なのです。それは御霊によって主イエスの恵みをいただくとき新しくされるのです。

2020年8月23日 礼拝説教要旨

  心に記された律法  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章12-16節

 

主題聖句: たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。

                             ローマの信徒への手紙 第2章14節

 

神は、終わりの日に、おのおのの行いに従ってお報いになられると、ローマ書は教えています。その人の心と行いに従ってお裁きになられるのです。具体的にどのような裁きなのかについて、12節で、神の律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれるが、律法を知らないで罪を犯した者は、どのように裁かれるのか、14節15節に記されています。

 

「律法」とは、神が特別に選んだ神の民にお与えになった法です。その選ばれた民には大切な神の御意志を示すもので大切にされていました。しかし、異邦人(ユダヤ人から見て外国人)である私たちは律法を知りませんし、持ってもいませんから、律法を行うはずがありません。しかし、律法を知らなくても、律法の中に命じられている大切な戒めの一部を知っていますし、行っています。例えば、安息日規定をしらなくても、毎日勤勉に働いています。姦淫してはならないという戒めを知らなくても、夫婦の信頼関係を大事にしなければならないと思っています。律法を厳密に知らなくても、人間として守るべき原則として受け止め行っています。それが、15節の「律法の要求する事柄がその心に記されている」ということです。私たちの心に神の律法の要求することが記されて、それが、私たちの法となっているのです。神は分け隔てなく正しく裁かれるのです。キリストを思い、律法を、神の言葉、神の御心として行っていきたいものです。

2020年8月16日 礼拝説教要旨

 分け隔てのない神の裁き 

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章6-11節

 

主題聖句:神はおのおのの行いに従ってお報いになります。

                               ローマの信徒への手紙  第2章6節

 

現在、コロナ感染拡大、厳しい暑さなどの過酷な環境の中、私たちは随分我慢を強いられて過ごしています。その中、自己中心的な行動をして周囲を困らせる行動を間近で見聞きすると、私たちは腹が立ちます。そのような行動に対して、神が正しく裁いてほしいと思います。

 

パウロは、「この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。」(5節)と語り、世の終りの時、神の裁きは正しく下ると教えています。

 

その最期の審判は、「おのおのの行いに従って」神がお報いになられるというのです。私たちはこう聞くと、周囲の人たちの悪い行動に対しては、そのような正しい裁きを期待します。しかし、自分については、自分は主イエスを信じて罪を赦して頂き、永遠の命を頂いているのだから、これ以上に善い行いをさらに加えないといけないのはおかしいと思いやすいのです。でも、パウロは、主イエスの救いを信じている人であっても、世の終わりの時、自分の行いに応じて報いを受けることになるというのです。コリント第二5章10節には「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに応じて、報いを受けねばならない」と語ります。私たちは希望を持って耐え忍び神に喜ばれることを求めて行くとき、神は永遠の命を与えられ、自己中心で不義に歩む者に怒りがある。心の奥底まで知り報われる神を信じよう。

 

2020年8月9日 礼拝説教要旨

 神の正しい裁き  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第2章1-5節

 

主題聖句:あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

                              ローマの信徒への手紙 第2章4節

 

他の人が良くないことをしているのを見たなら、私たちはすぐにその人の間違いが気になり、つい厳しく非難することがあるでしょう。身内ならなおさら言ってあげないと思い、指摘します。口に出さなくても心の中で、もうすでにその人を裁いています。人を裁く時の私たちは、自分は正しいと思い、相手の非を決めつけてひどく裁きます。しかし、しばらくして自分がそんなことを忘れてしまったように、平気で同じことをしてしまうことがあります。矛盾していますが、それが、私たち人間の正体です。

 

人を裁きながら、自分も同じことをしている者に対して、神はどうなさるでしょうか。「神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになる」とパウロは言います。この「正しく」とは、真理に基づいてということです。神の裁きは、真理、神の御心に基づいて行われるということです。

 

自分は間違っていない、正しいと思っている人には、他の人とは違うと思い、余計に神は自分を裁かれることはないと思ってしまうところがあります。でも、神は裁かれないのではないのです。神は私たちを憐れみ、長く忍耐して裁くのをとどめておられるのです。悔い改めるのを待っておられるのです。そのことに気づかずにいて、人を裁いて自分は同じことをしても安心しているのではないでしょうか。神が寛容な愛を持って裁きを控えておられることを知って、心から悔い改めることができますように。