2020年9月27日 礼拝説教要旨

 神の義が示された  

三好 晴夫 牧師

ローマの信徒への手紙 第3章21-26節

 

主題聖句:ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。

ローマの信徒への手紙  第3章21節

 

「ところが今や…神の義が示されました」と3章21節の言葉が始まります。何か突然、夜が明けたような気がします。そう感じるのは、これまで読んできた1章18節から3章20節までには、夜のような暗いことが書かれていたからです。人間の罪の現実について深く掘り下げて語られていたからです。そこには、私たち人間はすべて、罪人であることが言われていました。まさに夜のような光のない状態です。

 

人間が律法によって、正しいことが何かを分かったとしても、自分の弱さのゆえに、その正しいことを自分で行うことができないのです。そのためにひどい状態になってしまい、神から裁かれても当然な状態でした。それが私たち人間の現実の姿です。

 

ところが今や「律法とは関係なく…神の義が示されました」と言うのです。これまで知られていた神の義とは、律法という、神様が人間に示された正しいことを行うことによって神の前に義とされることでした。でも、その方法では、正しいことを行おうとしても守ることができず、罪の意識が生じるだけです。ところが今や、律法とは関係なく、人間が神の前に義とされる道が示されたのです。それは、憐れみ深い神が、御子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの負わなければならなかった罪の裁きをキリストに負わせてくださったという救いです。ゆえに、私たちは神との正しい関係に回復されるのです。この救いはキリストを信じる時に与えられます。

2020年9月20日 礼拝説教要旨

 復活の望み 

三好 晴夫 牧師

テサロニケの信徒への手紙 一  第4章13-18節

 

主題聖句: イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 

テサロニケの信徒への手紙 一 第4章14節

 

私たちは、先に天に召された愛する家族を覚えて、その方々の歩んだ生涯、主に頼って過ごされた信仰の日々を覚えてここに集まっています。

 

天に召された方々は、ご遺族にとって愛する家族です。教会員にとっては一緒に歩んだ信仰の先輩であり、信仰の友です。これらの方々と過ごした日々を思い返すと、昨日のことのように思い、悲しみに溢れます。

 

そんな悲しみの中にある私たちは周囲の方々の温かな言葉や慰めを受けて慰められてきたことでしょう。今日は、私たちの悲しみを和らげる望みが主の言葉にあることを覚えたいのです。それは、主イエス・キリストにつながることによって与えられる望みです。

 

キリストにある復活の望みは、この世で過ごしていた私たちの肉体が滅びても、主が備えられた永遠の家に迎えられることです。その家に迎えられて、世を去った信仰の先輩たちと共に終わりの日の体の復活を思って待っているのです。主を信じて過ごした愛する家族は、苦しみの中も、主が守って天に迎えてくださるとの約束を思い、主の命の中に生かされると信じて過ごされ、そして今、主のもとで主と共にあると信じます。

 

そのように、私たちも、キリストが復活されて天に上げられたように、キリストを信じて、キリストと共に死から復活されて主と共に住むという約束を覚えて、お互いに慰め合い、主に支えられていきたいものです。

2020年9月13日 礼拝説教要旨

正しい人はいない 

 

三好 晴夫 牧師

 

ロ-マの信徒への手紙 第3章9-20節

主題聖句:既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるので

す。                   

ロ-マの信徒への手紙 第3章9節

 

「福音」。神は、私たち人間を愛され、その御子キリストを通して罪から救い出して生かしてくださるという救いの知らせです。その救いの有り難さについて、私たちはよくわかっているでしょうか。

 

この福音のすばらしさ、救いの有り難さはよく分かるために、私たち人間の側に、深刻な問題があり、自分が罪汚れた者であることに気づくことが必要です。それほどに、私たち人間には、罪があり、その結果として神から裁かれるものであったのです。それゆえ、そのような私たちを神は見捨てられず、愛して救いを現してくださったのです。有り難いことです。

 

ローマ書1章18節から3章20節において、私たち人間の罪の現実がどんなものかが記されてきました。異邦人もユダヤ人も皆、自分たちを創造された神を無視して、自分勝手に歩んできました。「皆、罪の下にあるのです」。「罪のもとにある」とは、どの人間も、罪の力に支配され、罪や欲望に振り回されている状態にあるということです。

 

具体的には、13節以下に記された言葉の通り、人の会話は、不潔で腐っていてまるで墓穴からもれる悪臭のようです。人の言葉には、恐ろしい毒蛇のような毒があります。人の足は、人の口や頭や体を持ち運んで、悲惨な恐ろしい結果を起こしてしまう。「彼らの目には神への畏れがない」。パウロは、すべての人が、そして私たちも、この言葉の前に、そのような罪人だと指摘します。私たちを救おうとされる神に、救いを求めよう。

2020年9月6日 礼拝説教要旨

神の真実 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章1-8節

 主題聖句:決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。         

ロ-マの信徒への手紙 第3章4節

 

ローマ2章で、ユダヤ人も、その行いに従って神の裁きを受けることになるとパウロは語りました。彼らユダヤ人は、自分は神に選ばれた民であり、自ら正しい者であると自負していたのです。しかし、神の言葉に従っていないならば、神の前に正しいとはされず、裁かれるとパウロは彼らを責めたのです。

 

それを聞いたユダヤ人の反論を、パウロはここに取り上げます。その一つが3節にあります。要約すると、もし自分たちの中に不誠実な者がいたならば、その不誠実な態度のゆえに、神の人間への約束は壊れてしまい、神の誠実は無力になってしまうのですか。それなら人間がその約束を破らず守れるようにすることはできなかったのか。人間の不誠実さで、神の誠実はもうなくなってしまうのですか、という反論です。どうも自分の中にある不平不満を、このような形で吐き出しているのでしょう。神のことがよくわからず、神に頼ろうとする思いの弱い人の主張のように思えます。

 

パウロの答えは4節「決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」 たとえ人間が神との契約を破り不誠実な状態になったとしても、神は誠実であり続けられるのだというのです。人間同士の契約ならば、契約の当事者の一方が違反した場合、その信頼関係は壊れます。契約を守らなかった罰を支払わなければならない。しかし神は人に裏切られても約束に誠実にあり続けられるお方です。