2020年10月25日 礼拝説教要旨

 アブラハムの信仰  

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第4章1-8節

主題聖句:聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。

ローマの信徒への手紙第4章3節

 

今日からローマの信徒への手紙4章に入ります。3章では、人が義とされる(神との正しい関係とされる)のは、神の恵みにより信仰によることが教えられていました。それは喜びと恵みに満ちた救いでした。

 

4章では、その3章で教えられたことが、間違いのないものであることを確かめるためのことが書かれています。旧約の時代の神の民イスラエルの歴史に基づいて、信仰によるとはどういうことかが確かめられています。そこで、アブラハムが登場します。彼はイスラエル民族の先祖です。彼は神の召しを受け、自分の故郷を出て自分の家族などを連れて神の示す地に旅に出て行き、いつも神に信頼して歩みました。

 

アブラハムにはまだ子どもがありませんでした。子どものないまま年を取っていました。自分たちには子が与えられないと諦めて養子を決めていたのです。そんなアブラハムに神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束され、家の外へ呼び出し、無数に輝く空の星を指さしてこの星を数えるように言われたのです。彼には星の数を数えることはできませんでした。そのとき「あなたの子孫はこのようになる」と神は約束されたのです。その神の言葉をアブラハムは信じました。それで神は彼を義と認められたのです。神の前に正しい者、無実なものと認めてくださったのです。その時、アブラハムは何か善い事をしたのではありません。ただ信じただけです。これがアブラハムの信仰です。アブラハムのように神を信じましょう。

2020年10月18日 礼拝説教要旨

 弱いときにこそ 

三好 晴夫 牧師

コリントの信徒への手紙 二  第12章7-10節

主題聖句:なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。         

コリントの信徒への手紙 二 第12章10節

 

私たちは、自分の弱さを何とかして取り除き、強くなりたいと願っています。でも、その弱さが弱いまま、ますます衰えていくのを経験しています。今日、その弱さを受け入れて強く生きたパウロの経験から学びたい。

 

パウロの感じていた弱さとは、7節「わたしの身に一つのとげ」が与えられたことでした。それは、目の病気、緑内障ではないか、激しい頭痛ではないか。マラリヤではないかという説もあります。その「とげ」は精神的なものではなく、パウロの肉体上の故障であろうと思われます。このために彼は長い間悩まされ続けたようです。「サタンから送られた使い」とパウロが呼ぶほど、ひどく苦しいものでした。パウロはそれを離れ去らせてくださいと三度主に祈り願いました。しかし、その願い通りにはなりませんでした。

 

その時の主の答えは、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)というものでした。その意味は、あなたの病気がそのままあっても、わたしの恵みは十分ある、あなたの弱さの中でこそ、わたしの力は十分に発揮されるというのです。パウロが病気で苦しむ中において、その弱さを抱えたままの状態で、なお生きる力が与えられるというのです。この答えを聞いて彼は、自分の弱さを受け入れ、弱さの中に主が力を与えて下さると期待して、弱さを受け入れたのです。

 

実際私たちも弱さを抱えています。自分の弱さの中に、宿っておられるキリストの力にお頼りし、弱さの中にこそ強めて頂きたいものです。

2020年10月11日 礼拝説教要旨

 信仰によって義とされる 

三好 晴夫 牧師

ロ-マの信徒への手紙 第3章27-31節

        

主題聖句:では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。            

ロ-マの信徒への手紙 第3章27節

 

私たち人間は、誇りを支えに生きています。何らかの誇りがなくてはならないと思い、その誇りを生きる支えとしています。そんな大事な誇りにもかかわらず、「それは取り除かれました」と言われているのです。

 

今日の箇所に示されている「誇り」は、ユダヤ人の持つ誇りが想定されています。彼らユダヤ人は、律法を持っていること、割礼を受けていること、神の選びの民とされていることを誇りとしていました。「それは取り除かれました」と言われているのです。すなわち、誇りは外に閉め出されましたというのです。もう誇ることができなくなったのです。

 

それは、どういう方法によってそうなったのかというと、人間は律法を行うことによっては、もう神の前に義と認められることができなくなったのです。もし自分が律法を行うことができるならば、それはその人の自慢になりますが、人間にはそれができないのです。そういう方法ではなく、信仰によって、もう誇らなくてもよいようになったのです。

 

私たち人間が神に逆らい罪を犯していて裁かれてもおかしくなかったのですが、神が、私たちを裁かれるのではなく、御子キリストを私たちの身代わりにして裁かれて十字架で犠牲にされたのです。その救いの御業のゆえに、信じる者を神の前に義とされるのです。神の前に無罪とされるのです。ですから、もう自分の良き行いによって自分を誇ることはできませんが、そのように救いを成し遂げられたキリストを誇って生きるのです。