2021年1月31日 礼拝説教要旨

すぐれた義

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第5章17-20節

               

   主題聖句:わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

 マタイによる福音書 第5章17節

 

私たちは、神に喜ばれて安らかに生きるために、神が何を望んでおられるかを知らなければ、分かりません。その神のみこころを表わすものとして、当時のユダヤ人たちは、「律法と預言者」を守らなければいけない、これを無視したら何を拠り所にしていけばいいのか、分からなかったのです。「律法」は彼らにとって大切な戒めでした。

 

主イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を…完成するためである」と言われました。「律法と預言者」とは、聖書の中の旧約聖書のことです。主イエスは、旧約聖書を廃止するためではなく、完成するために来られたお方なのです。「律法」とは、神が人間にお与えになった救いの契約です。神が人々を祝福される神となってくださいます。だから、神に対して人間が従うべき務めとして戒めを与えられたのです。その律法を、主イエスは完成されるのです。

 

主イエスが律法を完成されるということは、主がこの戒めを守って生きられたということだけの意味ではありません。私たち人間がこの戒めを守ることができるように、その戒めの本来の意味がどんなものなのかを、ご自分の言葉で教えてくださったということです。それが、主イエスのなさった教えです。そこまでされたのは、人間が罪のゆえに律法を守ることができないからです。主イエスは、人間を罪から救うことによって、人間が神の前にすぐれた義を持つことができるように教え導かれました。

2021年1月24日 礼拝説教要旨

宣教の始まり

三好 晴夫 牧師

        マタイによる福音書 第4章12-17節         

      

主題聖句:そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。  

マタイによる福音書 第4章17節

 

主イエスは、ガリラヤのカファルナウムの町に住んで、その町を拠点にして宣教を始められました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」というメッセージを宣べ伝えられたのです。

 

「天の国」は、福音書記者マタイの独特な表現です。マルコ福音書では、「神の国」と表現されています。同じ意味です。当時のユダヤ人が「神」という言い方を避けているところから、マタイも神という言い方を避けて「天の国」と言ったのです。「天の国」とは、一定の領域、場所と言うよりも、神が王として支配しているという、神の働きそのものに着目した言葉です。神の支配、神の統治と言う意味です。「天の国が近づいた」とは、神のご支配が神の御子イエスにおいて今や到来したということです。主イエスは、ご自分において神のご支配がここに到着したと語ったのです。

 

それゆえ、主イエスを通して現された神のご支配を認めて、神との正しい関係に入れと勧めるのです。悔い改めよ。方向転換して神に立ち返れと勧められるのです。

 

主イエスは、神の国について教え続け、神に立ち返るように語り続け、そうなるように十字架の道に進まれました。ですから神のご支配は主イエス・キリストにおいて私たちのすぐそばにあります。しかし、私たちはこの神を離れてしまい、神から背いて自分勝手な道に進みやすいものです。そんな私たちに主イエスは、なおも悔い改めを呼びかけておられます。

2021年1月17日(日) 礼拝説教要旨

主イエスに従う 

三好 晴夫 牧師

マタイによる福音書 第4章18-25節    

      

主題聖句:イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。        

マタイによる福音書 第4章19節

 

私たちの信仰はどのようにして始まるのでしょうか。その中心的な始まりについて確認したいと思います。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と語っています。すなわち、信仰は、主イエスが自分たちに呼びかけられるその言葉を聞くことによって始まるのだということです。私たちが聖書を読んだり、説教を聞いたりすることを通して、主イエスが語られる言葉を聞きます。そして、その中に込められた主イエスのお心や思いを知るのです。そうしてこのお方がこの私にとってどんなお方かを知って信頼するように導かれます。そしてますますこのお方を救い主と信じ、これからも信じ続けるようにと導かれていくのです。

 

その意味で、主イエスの最初の弟子たちが、どのようにして弟子となったのかそのいきさつを知って、私たちが弟子として召されるその道筋を見たいのです。

 

主イエスがガリラヤ湖で漁をしていた漁師にかけられた言葉が、「わたしについてきなさい」でした。主イエスの方から、わたしを指導者として、わたしを深く関わって、わたしに従うようにとの大胆な招きです。主イエスは今も私たちをも招いておられます。主イエスを信頼し、神のための働きを一緒にしよう、そのように導くとの約束をもって招いておられます。