2021年6月27日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.26 信仰に生きる喜び              

 義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。                  マタイによる福音書第5章10節

 

主イエスは、マタイ5:3~12で「御国から見た幸いな人」として、8つの幸いを語られ、今日は8番目の幸いです。 「義のために迫害される人」と聞くと、私たちの思いとしては、正しいことをして努力している人が迫害に会うのはおかしいと思います。しかも、正しいことのために苦しむなんて理解できないと思います。この言葉は、おかしな言葉なのでしょうか。

主イエスが、この言葉を語っている相手は、目の前に集まっている弟子たちや群衆です。彼らは、主イエスをもっと知りたい、教えられ信じたいと思っているごく普通の人たちです。そんな彼らに向かって、このような「義のために迫害される」ことが起こることがあるが、祝福される、と教えておられるのです。

テモテへの手紙第二3章12節に「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」とあり、この言葉にあるように、主イエスに信頼し、このお方に従っていこうとしたら、当然迫害を受けることを覚悟しなければならないというのです。なぜかというと、私たちが、この世から救い出されてキリストに似た者として生きるからです。私たちがキリストに見習って神の御心を第一にして神との正しい関係に生きようとするならば、周りから付き合いにくい者、違う者として避けられてしまうからです。そのような状態になって苦しむことがあっても、その苦しみの中で祝福があるのです。「天の国はその人たちのもの」、神様が共におられてしっかりと守ってくださるのです。自分を救ってくださるキリストのために自分も共に苦しむ喜びがあるのです。

2021年6月20日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.25 祝福の言葉              

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」

マタイによる福音書第5章7節

 

「憐み深い人々」とは、他人が困って苦しんでいるのを見て、憐れんで助け

てあげる人のことでしょう。そのような同情に満ちた愛の行動を、私たちはできるでしょうか。なかなかできないのではないでしょうか。

では、主イエスは、この言葉を、どのような意味で語っておられるのかを思うと、この「憐み深い」「憐み」は、神の憐みであることに気づかされます。神の憐みは、神の人間に対して与えられた契約に基づいて変わらない真実な愛です。その契約を神は真実に人間にあらわされるのですが、人間はそれに従わず、背き続けてきました。なおも神は憐み続け、神の義を貫かれました。私たちを裁かれないように、私たちの代わりに神の御子を十字架につけて私たちの罪の贖いをして、私たちを救われました。

 

ですから、主イエスが、「憐み深い人々」と語られるとき、人間の間だけの憐み深さ、思いやりの行動ではないのです。神の憐みの中に自分が生かされていることを覚えるべきです。そのことを、マタイ18章21節以下の主イエスのたとえ話は教えています。一万タラントもの大金を自分の主人に借りて返却しないしもべが、主人に猶予をお願いしたとき、主人は、彼を憐み、その負債を免じてくれたのです。しかし、このしもべは、自分の仲間のごくわずかの借金を責め立て赦しませんでした。このたとえは、自分が赦されたからこそ、人を赦すことができることを教えています。事実私たちはキリストの愛によって赦されています。この憐みを受けていることを覚える時憐み深い者とされるのです

2021年6月13日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.24 まことの祝福 
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」
マタイによる福音書第5章5節

  「柔和」という日本語は、やさしくおとなしいさまという、どちらかというと弱弱しい響きを持っています。しかし、ギリシャ語の「プラウス」という柔和は、自分を正しく評価し、他人には心低くして仕え、悪に煩わされないで神に忠実に仕える態度を示す言葉です。しなやかだけど、したたかな強さも兼ね備えた態度です。したがって、謙遜とほとんど同じ意味です。
柔和な人物の旧約聖書における代表例は、モーセです。彼について「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった」と言われています。モーセは、最も信頼する人々から非難されたこともあったが、一切弁解しませんでした。神の前に自らを低くして自分の使命を全うしました。
新約聖書では、ステファノやパウロは迫害を受ける中も、自ら謙遜にキリストを伝え続けました。柔和の本質は、主イエスご自身にあらわれています。主イエスご自身、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と、謙遜な態度で人々に教えられました。主イエスは、自ら低くして、しもべのようになり、人々を罪から救い出すために、人々の罪を自分の罪として背負い、十字架にかかって死んで贖いの業を成し遂げられました。
「(柔和な人は)地を受け継ぐ」と主イエスは言われました。詩編37編11節にその言葉があります。民が神を信頼し続けるなら神の契約に基づいて相続できるのです。神に信頼する者は神の契約の祝福を受け継ぐというのです。

2021年6月6日 礼拝説教要旨

きょうどう-2021年 No.23 幸いである
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

  マタイによる福音書第5章3節

今日は、主イエスの教えられた「幸い」について学びます。
この世の多くの人々は、お金持ちになること、仕事が成功することが幸せと
思って目指し生きています。しかし、それらのどれかを得ることができたとしてもそれで本当に幸せになれるとは限りません。この世の幸せを得たとしても、本人がまだまだ不満だと思うならば、本当の幸福ではありません。逆に、本人が貧しくても苦しくても私は幸福だ、感謝だと思い、喜んで生きているなら、それは幸せなのです。
ところが、主イエスは私たちに「幸せである」と言って本人の気づかない事実を思い起こさせようとしておられます。すなわち、主イエスのいう「幸い」は、本人が知らなくても現に「幸いである」という事実なのです。祝福されている、神から恵みを受けている。そういうふうに神から恵まれているというのです。
では、そのように神から祝福を受けている人とは誰かというと、「心の貧しい人々」なのだというのです。「貧しい人」生きていく必要な物が足りない状態にある人です。「心の貧しい人」悲しみや苦しみの中に心身ともに疲れ、自分が何もないゆえにただ神の助けのみを求める人です。放蕩息子が自分に何もないと気づいたとき、父親に求めようとしたように、自分に何もないと気づき神に求めようとする者が幸いである、と主イエスは言われたのです。それは、神に頼って求めようとするその人が「天の国」神のご支配を素直に受けやすいからです。その人には神の支配がすでにあり、祝福されています。