イエスの御名を信じる
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第3章11-16節
主題聖句:あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。
使徒言行録第3章16節
エルサレム神殿の「美しい門」のそばで、生まれながらに足の不自由な男が物ごいをしていました。その彼に向かって、使徒ペトロとヨハネは「わたしには金銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語り、彼の手を取って立ち上がらせたところ、彼は躍り上がって立ち、歩き出すという奇跡が起こりました。これを見聞きした人々が非常に驚き、ペトロたちのところに集まって来ました。そこで、その民衆に向かってペトロが、今行われた奇跡について説明を始めたのです。
人々は驚いていました。この二人が奇跡を行う特別な能力を持っていてその力によってこの男を歩かせたのだと思い込んでいたのです。しかしそうではないのです。ペトロは「自分の力や信心によって、この人を歩かせた」のではない、「この人を、イエスの名が強くした」のだとはっきりと語りました。イエスの名とは、イスラエルの神の僕であるイエスの名です。
このお方の御力がこの人を強くし、歩かせたのです。イエスの名をこの人が素直に信じて、自分をペトロの手に委ねて立ち上がったとき、イエスの御力が現わされたのです。私たちもイエスの名を信じて歩みましょう。
キリストの名によって歩け
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第3章1-10節
主題聖句:「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
使徒言行録第3章6節
主イエス・キリストの御名の力を覚えましょう。聖霊の降臨によって、主イエスがなさった不思議な御業が、使徒たちによっても行われたのです。その不思議な御業はどのようなものだったのでしょう。
使徒ぺトロとヨハネが、午後3時の祈りの時にエルサレム神殿に上った時に起こりました。彼ら二人が「美しい門」という神殿の門を通りかかったとき、そこに生まれながらに足の不自由な男が置かされていたのでした。その男が二人に施しを求めたとき、彼らは彼をじっと見つめ「わたしたちを見なさい」と言いました。その男は何かもらえると思って彼らをじっと見ました。その時です。ペトロは言いました。「わたしには金銀はない」。しかし「わたしの持っているものをあげます」。それは、私の大切な宝であるナザレ人イエス・キリストの名です。その名によって立ち上がり、歩きなさいとペトロは語って、彼を立ち上がらせたのです。彼はペトロの手助けで立ち上がって、神を賛美しながら神殿に入って行きました。
ペトロはどうしてそんなことを言ったのでしょうか。ペトロはイエスが真のキリスト救い主であると確信していたからです。このお方が、十字架の死の後、神によって復活し、神の右に座し、聖霊の姿でここにおられると信じていたからです。大切な宝であるキリストを信じていたからです。
皆一つになって
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第2章43-47節
主題聖句:信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
使徒言行録第2章44、45節
教会というと、建物、教わる場所をイメージしている場合が多いようですが、教会は、神に呼び集められた群れという意味です。信仰共同体です。最初に誕生した教会は大変魅力的で多くの人が集まっていました。その生活の様子を見ながら、私たちの教会もそのようになるためにどうしたらよいのか考えてみたいのです。
最初の教会の信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にしていたとあります。信者たちはイエスをまことの主、救い主と信じていました。ですから、同じ救い主を信じる仲間であると受け止めて、互いに苦しみも悲しみも受け止め合い助け合おうとしました。彼らは、強制されてそうしたのではなく、神への感謝からキリストに従う思いから、自分の物は自分だけの物としなかったのです。貧しく困った人がいたら助けるために自発的に自分の物を差し出しました。心から用立てました。毎日ひたすら心を一つにして集まって神を賛美していました。日々キリストの恵みを覚え、神を賛美したのです。そういう恵みを喜び感謝する姿に見倣いたいです。
悔い改めへの招き
三好 晴夫 牧師
使徒言行録 第2章37-42節
主題聖句:すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
使徒言行録第2章38節
五旬祭というユダヤの祭の日に、心を一つにして祈っていた主イエスの弟子たちに聖霊が降りました。聖霊に満たされた彼らは、ほかの国々の言葉で神の偉大な御業を語り出しました。その姿を見たエルサレムのユダヤ人たちは、大変驚いたり、嘲ったりしました。それで、弟子ペトロは声を張り上げて、自分たちがなぜこのように大胆に語るようになったのかを語り出したのです。
彼の語ったことは、この主イエスがユダヤ人に捕らえられ、十字架につけられて殺されたけれども、神は復活させられました。イエスが神からのメシアだからです。この方をあなたがたは殺したのですということでした。
このメッセージを聞いた人々は、心打たれ、自分たちはどうしたらよいのですかと尋ね求めたのです。彼らが自らの罪を自覚するのを見て、ペトロは悔い改めなさいと勧めました。今まで神の御子キリストを十字架につけてしまった罪を自覚し、キリストを信じるようにすることです。第二に、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさいと勧めました。洗礼は、イエス・キリストが、この私のために死んでくださり、死から復活されたという御業に結び合わせていただくことです。洗礼によって主キリストに結ばれて、罪が赦され、聖霊を受けるのです。